架空国家を作ろうの1.1世界線です

ニュークールラント植民地政府
Kolonialregierung Neu-Kurland

国旗

国章

クールラント公国の地図、現在はトバゴ島に位置する
公用語ドイツ語
首都ミタウ?、事実上の首都はヤーコプ要塞?
最大の都市ヤーコプ要塞?
政府
クールラント公不在
宰相不在
面積
面積300㎢
水面積率不明
人口
人口60,874人
概要
通貨ターラー?
国家体制絶対主義



ニュークールラント植民地政府 (独:Kolonialregierung Neu-Kurland 、ラテン語:Nova-Courland Coloniae Government ) は、トバゴ島に存在する自治政府である。1654年から存在しており、これはヨーロッパ諸国によって作られたアメリカ大陸の植民地国家の中で最小のものである。

面積はモルディブと同じ程度。人口は6万人で、その多くはバルト・ドイツ人?の末裔やオランダ系、フランス系などの白人からなる。

現在でもクールラント公を元首とする絶対主義であるが、このクールラント公が不在であるためニュークールラントでは宰相が代わりに国政を執り行っている。

歴史

ニュークールラントはクールラント公国?の公爵ヤーコプ・ケットラー?の治世に建設された。

前史

1642年に公爵に即位したヤーコプ・ケットラーは西ヨーロッパを訪問し、オランダやポルトガルの優れた商業思想を学んだ。ヤーコプ・ケットラーの治世の下、クールラント公国の金属加工技術と造船技術は大いに発展し、クールラントは当時ヨーロッパ最大の商船隊を設立するに至った。

トバゴ島の歴史

トバゴ島はカリブ海のアンティル諸島にある小さな島である。この地には有史以来先住民であるカリブ人?が定住していたが、1498年にクリストファー・コロンブスによって発見された。山がちなこの島は貿易風の通路にあたることから、近代以前はカリブ海における重要な航路の一つだった。

バルト・ドイツ人の入植

1628年頃にトバゴ島にはオランダ植民地が建設されつつあったが、これはすぐにスペイン人によって破壊されていた。1637年、西インド諸島に向けて航海していたクールラント船がこれを発見し、最初の植民を試みたが失敗に終わった。1639年に2席の軍艦と300人のバルト・ドイツ人が再びトバゴ島に上陸を試みたが、先住民カリブ人の激しい抵抗により追い出された。それからしばらくクールラントはトバゴ島の植民を諦め、アフリカのガンビアの植民地化を進めていたが、1654年にトバゴ島への入植を再開した。3月20日、クールラント公爵夫人の紋章を掲げたクールラントの艦隊が、45門の大砲と124人の兵士、25人の役人と80人以上の入植者を引き連れてトバゴ島を占領。クールラント船団の指揮官ヴィルム・モーレンはこの地をニュークールラントと名付けた。

クールラントの植民政策

植民が成功した後、トバゴ島の南西にはヤーコプ要塞?が建設され、これを中心に街が発展した。また、大クールラント湾やクールラント農園などクールラントに縁のある地名が各地に命名された。また、入植者たちによってルター派の教会も建設された。また、120人のバルト・ドイツ人、複数のオランダ系やフランス系入植者が加わり、1657年頃にニュークールラントの人口は1200人以上になった。

ニュークールラントの衰退

ニュークールラントは順調に発展を続けてきたが、1666年に海賊の襲撃を受けて多くの入植者達がトバゴ島を去った。この間にヤーコプ要塞はバルト・ドイツ人からオランダ人の手に渡った。1668年、クールラントの軍艦がヤーコプ要塞の奪還に向かったが、オランダ人の攻撃により失敗に終わった。1680年頃にヤーコプ要塞は再びバルト・ドイツ人の手に渡ったが、一連の流れでニュークールラントは大きな打撃を受けた。1683年頃には所有権はクールラント公国にあったが、ほとんど見捨てられた状況にあった。

クールラント公国の解体

1795年、第3次ポーランド分割によってクールラント公国はロシア帝国に併合された。新たに設けられたクールラント県の知事にはクールラント公国の公爵だったエルンスト・ヨハン・ビロン・フォン・クールラント?が就任した。当初多くのバルト・ドイツ人はロシアの上層階級にいたが、後に行われたロシア化によって立場を失い迫害されて行った。本国がロシアに併合されたにも関わらず、依然としてニュークールラントの所有権はクールラント公国にあった。この時ロシアによる同一化から逃れたクールラント貴族や一部のバルト・ドイツ人がニュークールラントに移住し、この地はさながらクールラント公国の亡命政府のような形となった。

近代のニュークールラント

かくして18世紀末から19世紀のニュークールラントは、人知れず復興しつつあった。1802年にイギリス人はこの地を領有しようとしたが、これは英国の拡大を警戒するフランス人の妨害により頓挫した。フランスもトバゴ島を領有しようとしていたが、英国に対抗するため当面はニュークールラントの独立を保証した。19世紀末までニュークールラントは英国とフランスの対立の場であった。やがてヨーロッパ諸国の近代化とともに、トバゴ島の重要性は低下していき、イギリス人やフランス人はニュークールラントへの興味を失っていった。

現代のニュークールラント

1962年、ニュークールラントはヨーロッパの先進国の影響から脱した。現在のニュークールラントは世界でも数少ない植民地政府、それも本国のいない孤立した植民地政府として人知れず生き残り続けている。

政治

クールラント公

クールラント公国は建国以来クールラント公が元首を務めてきた。このクールラント公は本来ポーランド王の封臣であり、初代クールラント公はリヴォニア騎士団?総長のゴットハルト・ケットラー?であった。このクールラント公の地位は代々ケットラー家が世襲してきたが、1737年にこれが断絶してからは家臣のビロン家が公爵の座に着くようになった。クールラント公はクールラント公国の元首であると共にニュークールラントの元首でもあったが、1795年のペーター・ビロン・フォン・クールラント?を最後にクールラント公の座が空席であるため実質ニュークールラントには元首が存在しない。

宰相

空席であるクールラント公の代わりに宰相が国政を執り行う。この宰相はニュークールラントにいるバルト・ドイツ貴族の中から直接選挙で選ばれ、任期は無期限である。なお、現宰相だったアルブリヒト・フォン・フェラー?2023年の政変?により死亡したため現在宰相の地位は空席となっている。

選挙制度

直接選挙制で、立候補できるのは爵位を持つバルト・ドイツ人のみである。投票権を持つのは税金を収めることができるバルト・ドイツ人の家の家長と長男である。またバルト・ドイツ貴族は納税の有無に関わらず家長と長男に投票権があり、これらは1人2票投票することができる。ただし、自分に投票する事は禁じられている。バルト・ドイツ系以外のオランダ系住民やフランス系住民、先住民であるカリブ系の住民には投票権は与えられていない。

行政

ニュークールラントには当初いかなる法律も存在しなかったが、現在は1799年に制定されたニュークールラント法?が施行されている。この法律は貴族に対するものと農民に対するものが存在し、また農民に対するものの中にもバルト・ドイツ人かそれ以外の住民かで内容が異なる。また、ニュークールラントの宰相は法律を必要に応じて改正することができる。

通貨

ニュークールラントでは紙幣が存在せず、硬貨であるターラー?が流通している。これらの多くはクールラント公国時代に打刻されたものである。


国際関係

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

国際社会・各種データ

国際機関

軍事同盟

国際イベント

各国データ

宇宙

宇宙

人物

人物

その他

歴史・設定

歴史

メンバーのみ編集できます