えちぜんけん 越前県 | |
基本情報 | |
---|---|
国 | 大日本帝国 |
地方 | 北陸地方 |
面積 | 3,090㎢ |
総人口 | 800,000人 |
隣接都府県 | 美濃県 飛騨県 加賀県 近江県 若狭県 |
越前県庁 | |
知事 | 横山 龍一 |
県庁所在地 | 福井市? |
越前県領域 | |
北陸道が大和朝廷の支配下に入ると、現在の越前県の地は、角鹿国造、高志国造、三国国造、江沼国造などの国造によって支配された。
角鹿国造の支配領域は旧角鹿国(後の越前国敦賀郡)、三国国造の支配領域は旧三国国(後の越前国足羽郡、大野郡、坂井郡)であった。
7世紀末の持統天皇期には、頃高志国が高志道前・高志道中・高志道後の3国に分割された。その後、高志前・高志中・高志後の表記を経て、大宝律令制定後に越前・越中・越後の表記に定まった。
角鹿国造の支配領域は旧角鹿国(後の越前国敦賀郡)、三国国造の支配領域は旧三国国(後の越前国足羽郡、大野郡、坂井郡)であった。
7世紀末の持統天皇期には、頃高志国が高志道前・高志道中・高志道後の3国に分割された。その後、高志前・高志中・高志後の表記を経て、大宝律令制定後に越前・越中・越後の表記に定まった。
律令制の時代には、中央集権的な官僚制による支配がうちたてられた。
また、718年(養老2年)には、越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡が能登国として分立した。
その後、823年(弘仁12年)には、越前国から加賀郡、江沼郡が加賀国として分立した。これらの分立は、国府から遠く離れていることも要因となった。
また、718年(養老2年)には、越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡が能登国として分立した。
その後、823年(弘仁12年)には、越前国から加賀郡、江沼郡が加賀国として分立した。これらの分立は、国府から遠く離れていることも要因となった。
749年、東大寺が越前国の豪族から土地の寄進を受け、また墾田を買収して、福井平野に多くの荘園を獲得する。また、坂井郡にあった貴族の墾田地を買収し成立した桑原荘は、越前の荘園の典型例の一つである。
しかし、10世紀になると越前国の東大寺領荘園は荒廃し、代わって皇室領、摂関家が中心となった。
しかし、10世紀になると越前国の東大寺領荘園は荒廃し、代わって皇室領、摂関家が中心となった。
治承・寿永の乱(源平合戦)において、越前国では斎藤氏など多くの武士が木曾義仲に味方したが、東国御家人中心の鎌倉幕府が成立したため、越前の御家人は、地頭には任命されなかった。
越前では、島津氏、後藤氏などが守護に任命された。
越前では、島津氏、後藤氏などが守護に任命された。
1336年、足利尊氏の入京により、北陸落ちした新田義貞が敦賀の金ケ崎城に入るが、翌年に足利方の越前守護斯波高経の軍勢に包囲され落城。義貞は脱出するも、1338年に越前国にて戦死。その後、越前国は北朝方が平定した。
15世紀後半になると守護・斯波氏と守護代・甲斐氏の対立が深まり、やがて越前国内で内乱が起きる。最終的には幕府の支援を受けた甲斐氏が勝利するものの、その後、朝倉孝景が台頭し、朝倉氏は甲斐氏に代わって越前国を掌握する。
孝景は分国法である朝倉敏景十七ヶ条を制定し、朝倉氏を戦国大名として繁栄する基礎を作った。また、この頃には一乗谷に城を築き、本拠を構える。
旧主の斯波義敏が越前守護職を回復せんと朝倉氏の越前実効支配について幕府に異議を申し立てると、孝景は、かつて守護であった斯波義廉の子を鞍谷公方の養子として足利義俊と名乗らせた上で、幕府の反対を押し切ってこの義俊を名目上の越前国主として擁立。越前守護の斯波氏に対抗した。後に朝倉氏自体が越前守護に任じられることとなったため、鞍谷公方足利氏は朝倉氏の客将と化した。
孝景は分国法である朝倉敏景十七ヶ条を制定し、朝倉氏を戦国大名として繁栄する基礎を作った。また、この頃には一乗谷に城を築き、本拠を構える。
旧主の斯波義敏が越前守護職を回復せんと朝倉氏の越前実効支配について幕府に異議を申し立てると、孝景は、かつて守護であった斯波義廉の子を鞍谷公方の養子として足利義俊と名乗らせた上で、幕府の反対を押し切ってこの義俊を名目上の越前国主として擁立。越前守護の斯波氏に対抗した。後に朝倉氏自体が越前守護に任じられることとなったため、鞍谷公方足利氏は朝倉氏の客将と化した。
1481年(文明13年)に孝景が没すると嫡子の氏景が継いだが、わずか5年後の1486年(文明18年)に亡くなる。
貞景は、14歳で朝倉氏の家督を継ぎ、大叔父の経景、慈視院光玖、景冬らに支えられながら朝倉氏の地位を確立していった。幕府での朝倉氏の立場は安定し、一方、貞景は近隣の実力者である美濃斎藤氏と縁組し、以後長く越前国と美濃国は政治的な関係を保った。
管領細川政元の策謀により将軍足利義材が失脚した明応の政変の後、越中に下向した義材を貞景は支持し、また美濃斎藤氏の内紛では舅の斎藤妙純に助力したが、妙純は討死し、以後貞景は積極的な国外出兵を止めた。
しかし、貞景の大叔父の世代の指導者たちが没すると、敦賀郡司景冬の息子の景豊は、初代孝景の四男の元景と組んで、当主の貞景に謀叛を起こした。1503年(文亀3年)、貞景は初代・孝景の末子教景(宗滴)を抜擢して敦賀に出兵し、景豊を滅ぼした。これにより、越前の支配体制は確立されていった。
貞景は、14歳で朝倉氏の家督を継ぎ、大叔父の経景、慈視院光玖、景冬らに支えられながら朝倉氏の地位を確立していった。幕府での朝倉氏の立場は安定し、一方、貞景は近隣の実力者である美濃斎藤氏と縁組し、以後長く越前国と美濃国は政治的な関係を保った。
管領細川政元の策謀により将軍足利義材が失脚した明応の政変の後、越中に下向した義材を貞景は支持し、また美濃斎藤氏の内紛では舅の斎藤妙純に助力したが、妙純は討死し、以後貞景は積極的な国外出兵を止めた。
しかし、貞景の大叔父の世代の指導者たちが没すると、敦賀郡司景冬の息子の景豊は、初代孝景の四男の元景と組んで、当主の貞景に謀叛を起こした。1503年(文亀3年)、貞景は初代・孝景の末子教景(宗滴)を抜擢して敦賀に出兵し、景豊を滅ぼした。これにより、越前の支配体制は確立されていった。
1471年(文明3年)、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山に吉崎御坊を建立した。その後、北の加賀にて一向一揆が起こり、加賀が一向宗の勢力下に入ると、1494年(明応3年)一向宗は勢力拡大をはかり、かつて越前で朝倉氏と争った甲斐氏と共に越前へ侵攻した。朝倉氏はこれを撃退するも、一向宗との戦は長く続くこととなる。
1506年には、九頭竜川の戦いが起こり、加賀国から本願寺門徒らが侵入し、朝倉教景(宗滴)指揮する朝倉方はこれを九頭竜川で迎え撃ち勝利する。
以後、越前国では、朝倉氏と甲斐氏の対立から、朝倉氏と一向一揆の対立という構図に変化した。貞景は賀越国境を封鎖して加賀の一揆進攻に備えた。その後、京都では足利義尹が周防の大内義興に支援されて復帰し、これを支持したが、近江などの国外出兵は控えた。
1506年には、九頭竜川の戦いが起こり、加賀国から本願寺門徒らが侵入し、朝倉教景(宗滴)指揮する朝倉方はこれを九頭竜川で迎え撃ち勝利する。
以後、越前国では、朝倉氏と甲斐氏の対立から、朝倉氏と一向一揆の対立という構図に変化した。貞景は賀越国境を封鎖して加賀の一揆進攻に備えた。その後、京都では足利義尹が周防の大内義興に支援されて復帰し、これを支持したが、近江などの国外出兵は控えた。
貞景は1512年(永正9年)に鷹狩の途中で急死。孝景が朝倉氏当主となると、朝倉氏の実力の上昇に伴ない、幕府における朝倉氏の位置付けも変わり、ほぼ守護と同格となった。また、若狭・近江・美濃・加賀などの隣国や丹後、京都などに出兵することも多くなったが、いずれも当主の孝景は出陣せず、一族が朝倉勢を率いた。特に朝倉教景(宗滴)は、一族の参謀格として各地を転戦し、武名を轟かせる。
- 福井空港?
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