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緒川 義真
おがわ よしざね
生年月日1926年(大正15年)3月10日(98歳)
出生地豊後府 府内市
出身校東京帝国大学?卒業
所属政党改進党?
→(日本民主党)
→(保守政友党?)(佐藤派)→
→(保守政友党)
(田中派)
→(無所属)
→(保守政友党)
→(日本希望の党)
→(保守党
保守希望党
称号衆議院名誉議員
豊後府名誉府民
戦後政治の生き字引
衆議院議長
在職1986年7月22日 - 1989年6月2日
天皇昭和天皇
副総理
内閣西村英一内閣?
西村英一改造内閣?
在職1980年7月17日 - 1982年12月27日
法務大臣
内閣第二次池田内閣?
第二次池田第一次改造内閣?
第一次田中角栄内閣?
在職1960年12月8日 - 1962年7月18日
1972年7月7日 - 1972年12月22日
内閣官房長官
内閣第三次佐藤改造内閣?
在職1971年7月5日 - 1972年7月7日
大蔵大臣
内閣第一次大平内閣?
在職1978年12月7日 - 1979年11月9日
外務大臣
内閣第二次大平内閣?
在職1979年11月9日 - 1980年7月17日
その他の職歴
衆議院議員(25期)
選挙区旧豊後3区?豊後8区?
当選回数25回(尾崎行雄に並び過去最多
任期1952年10月2日 - 現職
保守政友党 政務調査会長
(総裁:福田赳夫)
任期1976年 - 1977年
保守政友党 幹事長
(総裁:中曽根康弘)
任期1983年12月 - 1984年10月
日本希望の党 名誉顧問
(代表:小池百合子)
任期1993年 - 1996年
日本希望の党 最高顧問
(代表:小池百合子)
任期1996年 - 2019年
保守党 最高顧問
(代表:荻千景)
任期2019年 - 2020年
保守希望党 最高顧問
任期2020年1月1日 - 現職

概要

緒川 義真(おがわ よしざね、1926年(大正15年)3月10日 - )は、大日本帝国の政治家。保守希望党所属の衆議院議員(25期)。

戦後の保守合同以前から現在に至るまで衆議院議員を70年以上に渡って務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を更新し続け「戦後政治の生き字引」「政界の神様」と呼ばれている。

96歳となった今も介添えなしで登院し保守希望党最高顧問や日本会議議員連盟最高顧問などを務めるなど精力的に活動している。

衆議院議長、内閣総理大臣臨時代理(副総理)、法務大臣、大蔵大臣、外務大臣、内閣官房長官など数々の要職を歴任した。

略歴

生い立ち

大正天皇の病状悪化が伝えられる大正15年3月10日(1926年3月10日)
豊後府府内市上田町に父・寅雄、母・トミヱの子として生まれる。
父・寅雄は教員であった。父は当時としては珍しく革新的な思想の持ち主で無産政党(後に日本社会党へと繋がる)の支援者であった。一方で父は七高出身であり、同級の友人には後に義真が支えることとなる西村英一がいた。西村と寅雄は政治思想は異なるが仲が良く、義真は西村に敬意を込めて「おいさん」と呼んでいた。その後西村に進められ大分中学、七高を経て東京帝大を卒業した。

重光葵との出会いと政界入り

帝大卒業後帰郷するとすぐ、西村から衆議院選挙への出馬を打診される。ただ西村の所属していた自由党(旧右派政友会)には旧豊後3区に現職の福田喜東がいたことから勝ち目は無いと考えた緒川はこれを辞退した。
すると翌日、改進党(旧中立派政友会)の党首であった元外務大臣重光葵が緒川の自宅を訪れた。「頼む、力を貸してくれ」戦前からの有力政治家が義足を引きずり(重光は戦前、爆破テロで右足を失っている。)自宅にやってきて頭を下げるという状況に心を動かされた緒川は改進党からの出馬を決意する。
豊後府における重光人気もあり1952年10月1日、豊後3区歴代最高得票でトップ当選を果たす。時に緒川義真26歳、現在まで至る長い政治家人生の始まりであった。

保守合同へ

1952年の総選挙後、重光は首班指名選挙で野党の首班候補として指名されるが自由党の吉田茂に敗れる。続く53年の総選挙でも前回より若干票を減らすも豊後3区で2選(以降、1993年まで連続トップ当選)を果たす。この選挙では自由党は敗北し少数与党となったため吉田は重光に連立入りを要請。重光はこれを拒否した。野党首班として重光の内閣総理大臣就任が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党からの支持を得られず決選投票で敗北。吉田との会談で閣外協力を受けいれた。この際義真は重光から相談を受けており、旧知の西村のいる自由党との連立入りを義真は強く推したというが、重光の決意は堅かった。その後鳩山一郎率いる民主党(左派政友会)と改進党は合流し日本民主党を結成。義真は重光側近としてこれに従った。副総裁となった重光のもと日本民主党副総裁補佐となる。1954年、第1次鳩山一郎内閣が誕生すると法務政務次官に就任。1955年、鳩山と吉田の保守合同に伴い保守政友党の設立に参加。遂に西村英一と同じ党に所属することとなり、義真は大いに喜んだという。この頃、重光に呼び出された義真は、衝撃の事実を知る。

重光「あの選挙(52年総選挙)で君を私に紹介してくれたのは西村英一君なんだ。西村君は君のことを幼い頃から知っていたそうじゃないか。西村君が義真を必ず議員にさせてやりたいが、どうしてもいまの自由党では当選させてあげれない。どうか頼む。と私に頭を下げたんだ。それで私は君を誘った。今考えればあれで良かったんだね。」

義真は西村と重光に深く感謝し2人を支えることに政治生命をかける決意をした。

重光の死と政友党での出世

保守政友党の結党後は党務においても税務調査副会長や部会長などを歴任するようになり鳩山内閣で再び外相を務めることとなった重光側近の中堅議員として頭角を現す。その後初入閣も近いと言われていた1957年1月26日、重光が狭心症の発作で急死する。義真はその2日前に正月の挨拶で神奈川県湯河原町にある重光の別荘に訪れており、最後に重光と会ったこととなる。重光の死を受け、西村英一の誘いで佐藤栄作派に入会。西村はこの頃後の首相となる佐藤派の田中角栄と親密にしており、義真は同時に角栄の知己も得ることとなる。1958年から政友党の選挙対策委員長に就任。初の党務ポストに就くと、第5回参議院議員選挙で政友党は大勝。義真の積極的な擁立策が功を奏した。義真の能力は時の政友党幹部に高く評価され、1960年12月8日、岸信介内閣の退陣に伴い成立した池田勇人内閣にて法務大臣として初入閣を果たす。34歳、史上最年少での入閣となった。
法務大臣としては当時深刻化しつつあった公害問題などに法律面から対応し、環境庁設立に向けた法整備の開始を指示した。
第二次内閣で退任するが、この第二次内閣では遂に西村が初入閣。西村は「先を越されてしまった」と周囲に笑い話として話していたという。その後は衆議院外務委員長などを歴任し暫く内閣からは離れていたが1971年、佐藤栄作のもと内閣官房長官に抜擢される。人事の佐藤と呼ばれた佐藤最後のサプライズ人事であった。
佐藤退任のころ、福田赳夫を後継総裁に推す意向だった佐藤に反発し田中角栄は佐藤派内で派内派を結成。この代表に西村英一が付き、一気に党内最大勢力となった。
73年に田中角栄が首相に就任すると、義真は再び法務大臣に就任。
その後田中金脈問題で田中が辞職に追い込まれると表向き手を引いた田中の代わりに田中派をまとめる西村英一と共に田中派の権力者となって行った。
三木武夫内閣時は無役となるも福田赳夫内閣発足後の役員人事で政務調査会長に就任。77年には衆議院永年在職表彰を受ける。その後大平内閣で蔵相、外相を歴任した。

大平の死と西村内閣

大平正芳内閣の蔵相として一般消費税構想を進める中79年の総選挙で政友党が過半数割れに追い込まれると、党分裂の危機(四十日抗争)が発生。田中派の一員として義真は大平を強く支援するも野党提出の大平内閣不信任決議案に福田派などが同調しこれが可決となる。大平首相は衆院を解散し史上初の衆参同時選挙となるも、激務が祟り急逝。政友党副総裁を務めていた西村が総裁代行として選挙を遂行し圧勝に導くと、西村が後継の内閣総理大臣に就任。西村英一内閣が発足する。福田派などからは80を超える老齢の西村ではなく要職を歴任しまだ若い義真を総理に推す声も多かったが、義真自身が西村をおいて総理を務めれる人物は他になしとし、スムーズに西村内閣は成立した。「おいさん」西村からの絶大な信頼の元副総理に就任し高齢の西村の代わりに外遊をこなすことも多かった。西村退任時に西村から後継指名を受けるがこれを固辞し中曽根康弘が総裁に就任すると義真は政友党幹事長に就任した。

幹事長から異例の議長就任

幹事長としては中曽根を支え電電公社の民営化などでの党内の融和を計った。この頃田中派内では竹下登らが世代交代を目指すようになり、西村の政界引退により義真とは関係が薄かった二階堂進が木曜クラブ(田中派)会長になるとその色はより鮮明となり、義真は幹事長として派から一時離脱していたこともあり、その流れを止めることは出来なかった。竹下は義真や二階堂らを旧時代の遺物として批判。その後竹下は経世会を派内派として成立させると、間もなく田中角栄が脳梗塞で倒れ田中派は分裂する。その頃義真は福田派など反主流派はじめ竹下らによって衆議院議長に祭り上げられた。義真はこれを受け慣例に従い会派を離脱するがこの際、清瀬一郎元議長に習って党籍も離脱したため、田中派分裂時には全く関知していなかったという。衆議院議長には1985年から89年まで在任。その最後年には昭和天皇が崩御し、上皇明仁が即位する(平成改元)などの時代の変わり目であった。89年に議長を退任すると政友党に復党するも田中派はもはやなく、義真を敵視する竹下登が総理となっており、無派閥となった義真は引退を考えるようになる。

リクルート事件と政治改革、そして離党

90年、竹下登首相らがリクルート事件で批判に晒されると、政友党の若手を中心に政治改革を求める機運が高まる。義真は若手に理解を示した。党政治改革本部長に田中派で共に活動した増永一郎元外相が就任し、義真も選挙制度改革本部長にする。海部内閣と宮澤内閣が政治改革を断念すると、増永や増永派のメンバーと共に政友党から集団離党。ニュースキャスターであった小池百合子が立ち上げた日本希望の党に参画し、名誉顧問となる。
政友党結党以来初めて(議長在任し除く)政友党から離れて出馬した93年総選挙は、中選挙区制最後の総選挙であった。豊後3区で50年代は愚か60年代を知る議員ももうおらず、九州でも古参議員となっていたが、ぶっちぎりのトップで15回目の当選を果たす。67歳になっていた。

日本希望の党、保守党、保守希望党最高顧問として

96年に小選挙区比例代表並立制が導入されると豊後8区からの出馬を選ぶ。2022年に至るまで対立候補の比例復活を許したことは無い。
しかし最高顧問に就任後は徐々に一歩引いた活動が目立つようになる。抜群の知名度から党首への就任や政友党との連立政権樹立後は何度も入閣を取り沙汰されるなどしたが、1度も実現していない。ただ、選挙の際は応援演説に全国を飛びまわるようになった。
2002年には衆議院で5人目となる在職50年を迎え永年在職表彰を受賞した。これにより国会議事堂内には胸像が設置されている。最近では登院時に杖をつくようになったが、基本的には出席率は高い。本人曰く「生涯現役を目指す」との事であり、今後も精力的に活動するとみられる。
2022年の希望党連立離脱時には連立離脱を強く中池代表(当時)に主張し、その後の参院選での圧勝などに導くなど、その抜群の政局勘は今だおとろえていない。

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