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阪急電鉄株式会社
Hankyu Railway Co.,Ltd.
種類株式会社
略称阪急
本社所在地摂津県大阪市,(本店:摂津県池田市)
設立1907年(明治40年)(1989年{平成元年}12月7日)
業種陸運業
代表者角田秀和
(代表取締役社長O)
資本金1億円
売上高1873億7100万円
営業利益477億8000万円
純利益278億5700万円
純資産2209億4600万円
総資産1兆581億2400万円
従業員数3100人
決算期3月31日
主要株主阪急東宝HD? 100%

































概要

阪急電鉄(英:Hankyu Railway)は大日本帝国の鉄道会社の一つである。近畿地方に路線を持ち、阪急東宝HD?を構成する会社の一つである。

歴史

箕面有馬電気軌道の開業

当時の恐慌により、証券会社の支配人となる話が破談となってしまい、失業してしまった小林一三?は箕面有馬電気鉄道の話を聞いており、同社に有望性があることを見出した小林一三は、かつての上司である岩下清周を説得し、北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功した。

一方、箕面有馬電気鉄道は元々国有化された阪鶴鉄道(今の福知山線)の関係者が多く携わっていた。同社は阪神電気鉄道などの事例に注目して、軌道条例に則った電車を走らせることによって営業することを画策した。しかし、直後の恐慌によって株式の引き取り手が無くなり、計画が頓挫しそうな頃に前述の通り小林一三が北浜銀行に株を引き取らせ、無事開業への目処がついた。

1907年10月19日に創立総会が行われた。専務取締役に小林一三、取締役に松方幸次郎などが就任し、箕面有馬電気軌道が設立した。

1910年3月10日に梅田駅ー宝塚駅の宝塚線?、石橋駅ー箕面駅の箕面線?を同時に全面開業。路面電車扱いであったことから一部の区間に併用軌道があった。

阪神電鉄?などの大都市を結ぶ路線ではないこと、沿線がただの田園であったことから、採算が取れないと言う懸念が当初から出ており、「ミミズ電車」とも揶揄されるほどであった。しかし、開業すると営業成績は良好で開業から間もない頃の営業利益は予想の2倍ほどになったという。しかし、列車衝突事故を8日間のうちに二度起こすなど、必ずしも良好だとも言い切れなかった。

そのような状態の中、当時実質的な代表者であった小林一三は周囲に広がる田園に目をつけ、周辺の土地を買収し開発を行うことでさらなる増収を目論んだ。その初手で行われたのが池田にて行われた月賦方式の住宅販売である。今でこそこういった月賦、住宅ローンは一般的であるが、当時は珍しいことであった。家、しかも庭付きという家の入手が容易であったこのモデルは成功し、池田室町住宅は程なく完売。桜井や豊中などにも同様の住宅が広がることになる。

また、沿線のレジャー開発も並行して行われた。開業間もない11月には箕面に箕面大動物園、1911年には宝塚に宝塚レジャーランドを開業した。こういった開発は必ずしも良いものではなかった。宝塚レジャーランドに置かれたプールは非常に不人気で早いうちに閉鎖されることになってしまった。しかし、小林は別の一手を打つのであった。元々小林は演劇を嗜んでいたことや、当時三越の歌劇団が流行りを見せていたことから「宝塚唱歌隊」を結成。これが非常に成功し、「宝塚歌劇団」と名前を変え今でも海外へ名を轟かすものになった。

都市間電鉄への変化

小林は沿線開発という手段で乗客を非常に増加させることに成功させた一方で郊外電車のままでは限界があると考えていた。そのため、開業当初から商都であり、近畿地方最大の都市大阪と貿易港のある神戸を結ぶ路線の計画を立てていた。しかし、この区間の海岸側には阪神電鉄、山手側には日本の大動脈でもある東海道本線が通っていたため、同区間の鉄道敷設免許を取得することは困難であった。

開業から2年経った1912年に灘循環軌道という会社が今の神戸市中央区葺合から岡本、西宮、御影などを通る環状線を計画する。競合を避けたい阪神電鉄は同社に強い関心をもち、強く働きかける一方で箕有は同社を主導下で設立することに成功する。(この時に環状線の南半分は計画廃止)箕有が敷設していた宝塚ー門戸厄神ー西宮(当初は阪神香櫨園駅付近、後に西宮北口へ)の路線に接続し、中間地点の伊丹を発展させる目的で、十三ー伊丹ー門戸厄神を通る十三線の敷設免許を1913年に取得することに成功した。その後ルート変更申請を行うが認められず、1915年に施工認可が下りる。

しかしその直前に小林と仲が良い岩下が頭取を務める北浜銀行が大林組と大阪電気軌道への融資焦げ付きもあり破綻。箕有が担保として預けていた灘循環軌道の株も売却するという事態になった。北浜銀行の大株主には阪神電鉄の関係者もいたため、株は阪神電鉄が購入する方針で進んでいた。箕有や小林にとっては危機に近い事態だったが、小林の交渉や、阪神電鉄が箕有の資本力が良くないこと、大戦勃発直後の恐慌だったことから買収が不可能と判断し、買収する意思がないことを伝えた。小林はこのチャンスを逃さず1916年の臨時株主総会において ・灘循環軌道の買収 ・同社の特許線と十三線の統合 を決議。阪神電鉄はこの決議に驚き、総会無効の訴訟や用地買収を妨害する行動に出たが、訴訟は阪神側の敗訴に終わった。箕有は1917年に十三線の計画を南寄りに変更する。これに対し伊丹などの沿線住民は話が違うじゃないかと抗議の声を上げる。結果として塚口を通り、伊丹へと至る路線を敷設することで話は決着する。

阪神急行電鉄への名称変更と神戸線

箕面有馬電気軌道は1918年に阪神間へ進出したことを示すために阪神急行電鉄へ名称を変更した。その略称には後に正式な社名にもなる「阪急」というものもあった。他にも、電気鉄道を略した電鉄や急行といった名称を付けたことは初の事例であった。

1920年に紆余曲折があったが神戸線として十三駅を起点として神戸駅(当時は上筒井)まで至る路線(神戸線?)と免許申請時の条件であった塚口ー伊丹の路線が伊丹線?として開業する。神戸線の路線は東海道本線よりも北側の人口過疎地帯を通っており、直線的に少ない駅で結ぶことになった。架線においても直線吊架式ではなくシンプルカテナリ吊架式を選択された。これらにより各駅停車ながら梅田駅から神戸上筒井駅間を50分で結び、小林自身も開業時「早くてガラアキで涼しい電車」と路線の特徴を踏まえたアピールが行われた。しかし、ガラアキと認めた通り沿線が過疎だったことや他路線と競合していたことから利用客が低迷した。そのため集客のために様々な努力が行われることになった。

運行面では1922年に集電装置を従来のポール型からパンタグラフ型に変更した。これにより、更なる速達化が可能になる。同年12月には梅田神戸間の所要時間が40分まで短縮された。また。宝塚線の開業時と同じように沿線開発も行われ、小林のコネクションを利用した沿線への学校誘致(関西学院大学など)や六甲山の開発が行われる。住宅開発においては阪急のみならず様々な民間業者も参入し、六甲山麓や西宮七園などに代表される高級住宅街が開発される。これらの沿線開発は後に阪神間モダニズムと呼ばれる独自の文化生活圏などが構築された。

箕有時代に免許を取得していた宝塚から香櫨園の路線は西宮北口経由に変更され1922年に西宝線として開業。1926年には阪神本線の今津駅まで延伸され、今津線?と変更された。

梅田駅の拡張

神戸線?の開業当時、梅田駅から十三駅の区間では宝塚線と線路を共用したり、併用機道が残っていた区間であった。また、梅田駅に関しても東海道本線を乗り越える形で大阪駅の南側に設けられた地上駅を2面3線に拡張していただけであった。

将来的に運転本数が増加すると捌ききれないと予想されたことや競合他社との競合上、併用軌道が存在することで高速化が困難であったことから線路別複々線化かつ専用軌道化が決定。1924年に新淀川橋梁の架け替え工事が始まりこれが1926年に完成した。これによって梅田駅が2面4線の高架駅となった。併用軌道区間は北野線として1936年まで残ることになる。しかし、国鉄の高架化計画が検討されていたためいつでも切り替えができるようになっていた。1931年には鉄道省から梅田駅付近を地上線に変更する旨要請があった。しかし費用面の問題で鉄道省と揉めることになった。
結果としては一部費用を鉄道省が負担することで妥協が成立。1934年6月1日の深夜に共同で切り替えを行うことが決定した。この切替工事において一夜のみで行われることになっていたため神戸線の運転を20時、宝塚線の運転を23時半で打ち止めにし約五時間かけて工事が行われた。この工事の中では小林自身も陣頭指揮に立っていた。

梅田駅は地上駅に移行後1936年には京都線の乗り入れ工事も行われ9面9線の地上駅になった。

また梅田駅においては神戸線の開業から4か月後の1920年11月に阪急が建設した梅田ビルの一階に日用雑貨を扱う白木屋が入居し
、2階で直営の食堂経営が始まった。1925年には白木屋の契約終了に伴い阪急マーケットとして直営で営業することとなった。1929年委は梅田駅ビルの改築に伴い阪急マーケットが拡張され、「阪急百貨店?」となった。鉄道会社が経営するデパートは世界でも類を見なかった。周囲からの反対の声を押し切り行われたこの事業は成功し不況下においても成功した。この事例に倣い東横百貨店や京阪デパート、阪神百貨店などの他の私鉄にも広がることになる。

三宮乗り入れ騒動

神戸線?の敷設において、当初は上筒井ではなく三宮へ高架での乗り入れを計画していた。しかし神戸市は市街地の分断が起きるとして地下化を主張していた。沿線住民もこれに同調していた。神戸市は同様の主張を東海道本線、阪神電鉄へも行っていた。阪神電鉄は高架化を考えていたが後に地下化し、東海道本線は費用が掛かることから難色を示し、1931年に高架化された。東海道本線は高架化が行われる頃から電化がすすめられており、1934年には大阪三ノ宮間を24分で運行する列車が出てきた。そのため阪急は1933年に高架での乗り入れが認められると、1936年に三宮まで延伸。この時同駅に作られた神戸阪急ビルは阪神淡路大震災で倒壊するまで、神戸のシンボル的存在となった。

神戸線は1930年より新型車両を導入。当初は全区間30分ほどで運行されていたが、1934年には25分まで短縮することに成功する。この速度は阪和電気鉄道の超特急に次ぐ評定速度であった。

三宮へ乗り入れしたことにより上筒井から西灘駅(今の王子公園駅)までは上筒井支線となり、1940年まで運行された。

阪神電鉄との対立

神戸線の特許取得時から阪神電鉄は阪神急行電鉄を快くは思わなかった。当初は山沿いを走るため同情的なコメントを残していたが、開発が進むにすれてライバル視していった。阪神は客を逃さないために併用軌道をなくし所要時間を35分に。増発もすることなどで「待たずに乗れる」といった宣伝も行った。競争はこういった客のみならず沿線でも行われていた。

「えべっさん」と呼ばれ親しまれている西宮神社は阪神西宮駅から非常に近く参拝客が多く利用していた。これに目を付けた阪神は西宮北口駅と夙川駅の間に臨時駅の西宮戎駅を置くことで参拝客を獲得する計画を立てた。しかし阪神は臨時駅から西宮神社までの道の街灯を消すという妨害工作を行った。

小林は阪神急行電鉄になる前に学生野球(六大学野球)や全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)をみたことで更なる野球の発展を見込み、職業野球球団構想を立ち上げている。日本初のプロ野球球団であった日本運動協会が解散した際にはこれを宝塚運動協会として発足させている。(1929年に解散)阪神が西宮市の甲子園に阪神甲子園球場を建設し、後に読売新聞社が大日本東京野球倶楽部(いまの読売ジャイアンツ?)を設立すると三大都市圏においての野球試合を開催する構想に乗り、阪神が甲子園を本拠地とする大阪タイガースを設立し、1936年には宝塚球場を本拠地とする阪急職業野球団(後の阪急ブレーブス)を設立した。両者は後にセ・リーグとパ・リーグに分かれ、両チームが日本シリーズにて相まみえるのは2014年になった。

沿線開発では、六甲山開発と尼宝電鉄の例が挙げられる。阪急は六甲山を開発することで更なる収益をもくろんだ。しかし、それに対抗し阪神もロープウェイなどを建設。バブル崩壊まで両社は六甲山の開発で争っていた。

1924年に阪神が出資し、宝塚尼崎電気軌道という会社が設立される。この会社は阪神本線の出屋敷駅から宝塚に至る路線を開業させようとしていた(尼宝線)。一方、阪急は神聖なテリトリーでもある宝塚に阪神の進出を防ぐために尼崎西宮宝塚循環軌道として西宮の海岸部を走る路線の特許を申請。対抗した阪神は同様のルートで特許を申請。結果として阪急の一部区間を除き特許が降りた。尼宝線は尼崎市からの高架化要請や尼崎駅起点への変更などもあったが後述する北大阪電気鉄道を取り合う関係になった京阪電気鉄道?との協力によって開業することになった。後に同社は阪神電車に統合され、同路線は阪神尼宝線?となった。

1922年に阪神は神戸線?の内側へ行くトロリーバスの計画を立てる。対抗した阪急は甲陽線?の敷設認可を得た。甲陽線は1924年に開業するが阪神のトロリーバス計画は頓挫した。

北大阪電気鉄道と京都進出

阪神急行電鉄は神戸線?の開業後から近畿三大都市のうち進出していない京都方面へ進出を考えていた。同時期に北大阪電気鉄道という会社が阪急の十三駅から千里山方面へ結ぶ路線を建設していた。同会社は京都方面への進出も考えており、十三ー高槻ー京都の特許を持っていた。この会社に目を付けた阪急は株式を取得し、子会社にしようと画策した。

京阪電気鉄道は大阪~京都間の輸送力増大を計画したが線形の悪さから効果は期待できなかった。そのため京阪では淀川左岸にて第二京阪線を敷設するべきだという声が多く上がり、この会社に目を付け、こちらも傘下に加えようと画策した。

阪急と京阪の争いはかなり激しいものとなり、京阪は阪急と敵対していた阪神電鉄に支援をするなど阪急の力をそごうと考えた。しかし、支援を行ってしまったことにより、経営状況が悪化。北大阪電気鉄道を買収することはできなくなり、北大阪電気鉄道は1926年に阪急傘下に入った。阪急は急ピッチで建設を進め、1930年に淡路ー天神橋間(天神橋線、後に千里線?)と淡路ー阪急京都(のちに大宮駅)間(京都線?)を開業させた。買収に失敗した京阪は大阪方面での事業拡大はあきらめ、名古屋を目指す方針に切り替えるほか、多角化に切り替え、京阪パールス?の設立や名古屋急行電鉄?の設立へつながる。

阪急電鉄への改称と兵庫県南部地震

京都線?は1936年に梅田まで延伸した。この時、中津駅は用地不足のためホームは置かれなかった。また、同時に北野線が廃線となった。京都側においても1963年に河原町まで延伸した。1967年には千里山線が千里線?へ名称変更の上、北千里駅まで延伸。この際に日本初の自動改札機が導入されるなど進歩的な技術も多く導入されている。1969年には京都線、千里線が堺筋線との相互直通運転を開始した。神戸線系統では1984年にダイヤ編成上のネックポイントであった西宮北口駅の神戸線?今津線?の平面交差が解消され、1988年に神戸高速線の第二種鉄道事業を開始した。

1973年に阪急電鉄へ名称変更した阪急であったが、1995年に類を見ないほどの損害に直する。兵庫県南部地震、通称阪神淡路大震災である。この地震において阪急は伊丹線?において高架が倒壊し、三宮の阪急ビルも倒壊した。この地震において客が復旧が早かった国鉄に流れる者もいたため、大幅減収の可能性が高かったが阪急ブレーブスが一丸になりその年のパ・リーグを制覇。日本シリーズで制覇することはなかったが「がんばろうKOBE」というスローガンは被災者の心に光をもたらすものであった。

路線

所属系統路線名区間
宝塚線?系統宝塚線?大阪梅田ー宝塚
箕面線?石橋阪大前ー箕面
神戸線?系統神戸線?大阪梅田ー神戸三宮
甲陽線?夙川ー甲陽園
伊丹線?塚口ー伊丹
今津線?今津ー宝塚
神戸高速線?神戸三宮ー新開地間の第二種鉄道事業
京都線?系統京都線?大阪梅田ー京都河原町
嵐山線?桂ー嵐山
千里線?天神橋筋六丁目ー北千里

車両

現有車両

1000系
2013年から製造を開始した新しい通勤形電車。
阪急伝統のホガニー木目の化粧板とゴールデンオリーブ色のアンゴラヤギの毛織物の座席表地を採用している。 また、照明はLEDの直接照明を採用している。 このLED照明は、停電時などの非常時には全体数の1/4が点灯するよう制御される。
全閉自冷式永久磁石同期電動機(PMSM)を採用し、高効率化により、消費電力量の削減を実現した。
PMSMは損失の少ない電動機であり、全閉構造を採用できる。これにより外部からのゴミなどの侵入を防ぐことができ、内部の洗浄作業が不要となっている。また、回転子を固定する機構により、内部を分解することなく軸受の交換が可能である。また、全閉構造により、騒音低減も実現した。

車両情報システムとしては,モニタリングシステムと車内案内表示システムを統合した車両情報統合 システムを採用した 。 従来は、モニタリングと車内案内表示をそれぞれ独立したシステムで行っていたが、これらを統合して重複機器や艤装配線を削減し、高効率なシステムを実現した。
9000系
8200系
8000系
7000系
6000系
5100系
5000系

1300系
9300系
8300系
7300系
7000系
6300系
5300系
3300系

関連会社

  • 阪急東宝HD?
  • 阪急ブレーブス
  • 阪急百貨店?
  • 阪急不動産?
  • 阪急バス?
  • 能勢電鉄?
  • 阪急交通社?
  • 阪急ホテル?
  • 阪急リテール?
  • 宝塚歌劇団?

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