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神代

ここでは、主に神代(神話)とされているものを記す。

皇室の系統(皇統)の起源は神武天皇元年(紀元前660年)に即位した神武天皇、更にはその始祖である天照大御神に始まるとされている。また、西暦でいう紀元前660年を紀元とする皇紀という紀年法も存在し、現在も使われるものの一つである。

神武東征

甲寅年(紀元前667年)、磐余彦尊(のちの神武天皇)は、みずから諸皇子と水軍をひきいて東征に出発した。
彦火火出見尊は精鋭を選んで土蜘蛛を討ち破り、その場所を磐余と改めた。中洲(大和国)の平定が終わったので畝傍山のほとりに全軍を招集し奠都の詔を高らかに宣言した。そして畝傍山の東南橿原の地に宮殿をつくらせた。そこが今の橿原神宮である。庚申年9月、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。
辛酉年(神武天皇元年、紀元前660年)1月1日、磐余彦尊は橿原宮に即位し(神日本磐余彦天皇、神武天皇)、正妃を皇后とした。天皇と皇后の間には、神八井耳命と神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)の二皇子が生まれた。

神武天皇崩御後

神武天皇76年3月11日に神武天皇が崩御した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命は皇位に就くため弟の神八井耳命と神渟名川耳尊の暗殺を企んでいた。二人は手研耳命を討ち、神渟名川耳尊は即位し、綏靖天皇となった。神八井耳命は綏靖天皇4年に薨じた。

古代

飛鳥時代

6世紀頃まてには、中央政府の国内支配が安定し、飛鳥京が置かれた。しかし、未だに東北の蝦夷など、国内では中央政府に従わない勢力が存在していた。
645年(皇極天皇4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏体制を滅ぼした。乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、新たに孝徳天皇が即位した。孝徳天皇は、日本で最初の元号の大化を制定するなどといった改革を進めていった。翌年(大化2年)には、改新の詔を宣して、政治体制の改革を始め、中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。
孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により大王位には就かず、退位し皇祖母尊を称していた母親・皇極天皇を、重祚させ、斉明天皇とした。斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった。
663年(天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。これは、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなり、筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海に防人や烽を置いた。666年(天智天皇5年)には、日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智天皇6年)、都城も大津京に移された。

668年(天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。

人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。690年(持統天皇4年)には、庚寅年籍が造られ、造籍の原形となった。692年(持統天皇6年)には、畿内に班田大夫を派遣。公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。702年(大宝2年)には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、国民1人1人が政府に把握されるようになった。さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。

中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。

中世

近世

戦国時代

戦国時代では、世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って、守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一元的に支配する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。

江戸時代

近代

明治時代

倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て旧幕府勢力を退けてから、王政復古により明治新政府を樹立した。新政府は欧米の諸制度を積極的に導入した。明治維新と呼ばれる一連の改革は、法、行政組織、インフラの整備にまで及んだ。その過程で日本の領域であった琉球や、蝦夷地(北海道と千島列島および樺太)、小笠原諸島を完全に日本の領域内に置き、国境を画定した。
また、殖産興業と富国強兵を国策として推進し、欧米列強に対抗するための国力増強に努めた。

大正時代

大正デモクラシーが進展し、護憲運動を経て大衆の政治参加が進み、政党政治が確立した。1925年には男子普通選挙が実現した。日本は第一次世界大戦の大戦特需と海底ケーブル需要により工業生産が激増し、未曾有の好景気となった。財閥は資本の集積・集中を進め巨大コンツェルンを築いたり、国際カルテルに参加したりした。政府は社会政策の面ではほとんど無策であり、農村から労働者が流入した大都市では貧民窟が形成されるなど貧困が広がった。そのため、社会主義者も増加したが、これらは厳しく取り締まられた。

昭和時代

昭和維新とも呼ばれた一連の改革は、帝国議会において立憲民政党、立憲政友会の二大政党制を築き上げた。先の第一次世界大戦で戦勝国となり、国際連盟で常任理事国となった日本は、国際社会においても発言力を持った。欧米諸国に対する強硬姿勢は、アジア諸国の注目を集めた。
1937年には、革新ブームが起き、革新党が総選挙で過半数を獲得し、日本史上初の革新政権が誕生し、柊木内閣が誕生した。柊木政権では、財閥の寡占や軍部の政治介入を批判し、注目を集めた。1939年に保守派による暴動が起き、負傷したことで辞職したが、革新ブームを起こした柊木の人気は薄まらず、その後の社会党結成などに影響を与えた。
1940年にはアジアで初の東京オリンピックが開かれ、日本中が歓喜に包まれる。また、1940年代から50年代にかけて高度経済成長により、経済規模が世界2位となった。
1947年に日本社会党が過半数を占め、片山内閣が組閣された。社会党政権では、社会福祉改革が進められ、財閥の一極集中を解消するなど一定の成果はあったものの、1949年に財閥問題等で片山内閣は総辞職した。1955年に分裂していた保守勢力が保守合同し、保守政友党が成立。同年の選挙で圧勝し、政権を奪取した。1950年代になると、日本赤軍や、日本共産党による共産主義運動が活発化するなど、テロや事件が多発した。
高度経済成長後の1960年代以降、東海道新幹線?の開通など、世界に先駆ける鉄道先進国としても発展する。1960年代までに国鉄などにより、多くの鉄道路線が開通し、世界随一の路線網を持つ国となった。
1970年代には、田中角栄内閣による日本改造計画が進められた。しかし、例の事件で頓挫する。
1980年代以降、インターネットの誕生や、電子機器の進化により、インターネットの世界が作られる。これらは1990年代後半頃には確立し、その後のネット世界に繋がっていった。
また、80年代頃から国鉄の杜撰な管理体制が露見し、当時の政権により改革が行われ、国鉄分割民営化が行われた。(しかし、民営化は一部のみであった)

平成時代

1990年代には、政治改革をめぐる保政党内の抗争の結果、宮澤内閣不信任決議案が可決された。また、保政党から集団離党が行われ、新生党などが誕生し、諸政党連立政権が誕生した。

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