タガログ王国の崩壊後、様々な短命国家が誕生した。しかし、それらは王国としてのノウハウがないためか全て一代限りの国家で終わっている。そんな中で誕生したのがイリュクノ族によるイリュクノ王国である。初代国王ウブラ・エババはそれらの短命国家とタガログ王国の統治を調べ上げ、国家建国に必要な情報を集めた。それを受けてウブラは建国した。もともとイリュクノ族の族長だった彼の建国にイリュクノ族は付き従うこととなった。
ウブラの死後イリュクノ族は国家を建国したことに気をよくしたのか周辺地域への侵略を開始した。イリュクノ族は他民族を奴隷として労働につかせ国内の開発を行っていった。それにより反抗する民族もあらわれるが彼らはタガログ王国や
東越がもたらした製鉄技術を十分に活用して鉄製の武具の量産に成功していた。更に国王の下一つに団結する彼らに次々と敗れ去っていくこととなる。
そんな中で国王に即位したのがヌビラ・エババであった。彼は線上においては自ら剣をもって戦いに参加するほど血気盛んな性格をしている一方で国内の荒れ地の開墾や道路の整備など国内の開発にも力を尽くすなど文武両道に優れた人物であった。彼はルソン島中央部を中心に支配下を広げていき、429年には領土的最盛期を迎えることとなった。しかし、433年にタガログ族とのアラミノス会戦で敗れて以降は征服した民族の反乱が相次ぐこととなり、彼の死の直前には領土はかなり減少していた。
これを機にイリュクノ王国は500年前後まで衰退の一途をたどることとなり、一時期は領土を完全に喪失。王族は
カラマ王国?に逃げることとなったがカラマ王国が内乱で滅びてからは再び故郷に戻り自分たちの土地を奪還。イリュクノ王国を再スタートさせた。
570年にはヌビラ・エババ即位前の領土にまで領土を取り戻すことができ、ルソン島以外との交易も行い始めた。600年代には隋・唐に使者を派遣して朝貢国にまでなるなど対外政策を行っている。
そしてこの貿易によってイリュクノ王国は大きな発展を遂げることになる。650年には国内初の中華風の王宮が建設され、中華風の街並みが主要都市に築かれた。中華風の文化が咲き乱れ小中華の異名を誇るほどの繁栄を見せた。しかし、イリュクノ族の伝統文化が廃れる事を恐れたこれ以降の国王たちは唐との距離を少しづつ置き始め、700年代には唐との貿易はほぼ行われなくなっていた。そんな中で小中華と呼ばれた街並みはイリュクノ族の文化とまじりあい独自の文化へと変わっていくことになった。
752年、
第二次タガログ王国?が攻勢を仕掛けてくるようになった。アラミノス会戦での勝利後に建国したタガログ人達はルソン島中央部西部を支配する大国に上り詰めていたが当代の国王マスバ=フィーラ・マグは剛勇にして緻密な戦術を得意とする戦上手の国王であったためにイリュクノ王国はアラミノス会戦以上の大敗を喫す事になった。幸いにもマスバ=フィーラ・マグの攻勢は長くは続かずに終了したがそれでもイリュクノ王国が失った領土を取り戻すことはできずに終わることとなった。
789年、国王に即位したエルビア・エババ=イリュクノは即位前より考えていた皇帝に戴冠を宣言、国号をイリュクノ帝国に帰ると同時にルソン島の統一を目指すことを宣言した。