18世紀末からロシア帝国は南下政策を行い始めた。1768年に始まった第一次露土戦争ではキュチュク・カイナルジャ条約を締結し、黒海北岸を喪失。1787年に始まった第二次露土戦争ではヤシ条約を締結し、ロシアのクリミア半島領有を認める形になった。セリム3世は改革の必要性を感じ、欧州の軍制を取り入れた「ニザーム・ジェティード」を創設するが、イェニチェリの反対にあったため、計画は頓挫する。また、皇帝が廃位された。かつて最強と名高かったイェニチェリはこの時期となっては既得権益に固執するだけの旧式軍であった。
このような外部的要因による衰退とともに内部では成長し続けていたアーヤーンが地方において実権を握り、ギリシャ北部などを支配したテペデレンリ・アリー・パシャなどのように半ば独立政権の主として振舞うものも少なくはなかった。これにより、かつて強固だったオスマン帝国の中央集権体制は無実化することになった。さらに1798年に行われたナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征によってムハンマド・アリーがエジプトの実権を握り、フランス革命から波及していた民族独立と解放の機運はバルカン半島のキリスト教徒のナショナリズム運動を強めており、ギリシャ王国が独立戦争を起こすもかろうじて勝利する。この戦争から立ち直る間もなく、ムハンマド・アリーが世襲支配権を求め戦争を行うがこれも鎮圧に成功する。だが、バルカン半島への勢力拡大を計画したロシア・オーストリアと勢力の均衡を図るイギリス・フランスの思惑が絡まりあい、オスマン帝国の外交は混乱状態にあった。また、多くの反乱により勢力圏はバルカンの一部、アナトリア、アラブ、エジプトだけになっており、さらに内部の統治もできていないほどだったため「瀕死の病人」と揶揄されるほどだった。
ただ、オスマン帝国も何もしていないわけではなかった。マフムト2世はイェニチェリの廃止に踏み切り、軍を西欧化させたほか、外務省、内務省、財務省の3省を設立し、中央政府を近代化させ、さらに翻訳局を設け、留学生を西欧に送り、人材育成を行った。続くアブデュルメジト1世は改革派の官僚であったムスタファ・レシト・パシャが起草したギュルハネ勅令を発布し、政治改革を行うことを宣言。様々な面で西欧的な体制に変革を図るタンジマートを開始した。タンジマートによってオスマン帝国は中央集権的な官僚機構の再構成と近代軍隊の確立を進めていった。
1853年にロシアとの間にクリミア戦争が勃発する。この戦争はイギリスの協力があり、何とか勝利を収めるが、この際に改革目標をイギリスなどに表明して支持を獲得したため、1856年に改革勅令を発布の上、非ムスリム層の権利を認める改革を約束した。こうして次の段階へ突入したタンジマートではシャリーアと西洋における法律の折衷を目指した新たな法典の制定や近代教育を行う学校の設置、近代的土地所有を認める法律の施行など改革がすすめられ、
オスマン銀行?も設立された。このような改革や戦争が長引くにつれ他国西欧の列強から多額の借金を必要としていたほか、貿易が拡大するにつれ西欧諸国への原材料輸出中心になっていったため、オスマン帝国は半植民地状態になっていた。その結果、オスマン帝国の財政は1875年に破産するに至った。
このような背景が要因となり、タンジマートは抜本的な改革をすることができなかったことが露呈した。西欧から新たな要求を受けたオスマン帝国では1876年にミドハト・パシャの下でオスマン帝国憲法(ミドハト憲法,旧憲法)を公布し、西欧型の法治国家であることを宣言。議会の設置やムスリム、非ムスリムにかかわらず臣民平等を行うなどが森こめられていた。だが、憲法発布からすぐの1878年に勃発した露土戦争で完敗し、当時の皇帝であったアブデュルハミト2世が専制体制復活のために、非常事態を口実としてこの憲法の停止を行う。一方では、オスマン債務管理局等を通じ、帝国の経済を掌握した諸外国によって、資本投下が進み、民間における西欧化が進んでいった。