実は初代国王チョ=フラは
東越の官僚の子孫だったと言われている。そのためか彼が建国する前から入念な準備を行って建国している。
その為、建国時の領土は村5つ、人口2000人を超えていた。そのほぼ全てがタガログ人であり、
東越建国時と同じように彼は国家という存在について教え込むことに生涯をつぎ込むこととなった。しかし、同時にこれによってタガログ人の間で自分たちの国はここだという意識が芽生え、それが幾度となくタガログ人の国家が形成されるきっかけとなっている。チョ=フラの死後、二代目国王(名称不明)は周辺のタガログ人たちを吸収する形で領土を拡大していった。タガログ人はこの時期この周辺に固まって住んでおり、同じ民族のタガログ王国を比較的容易に受け入れたとされているがこの時期の資料がほぼ現存していないために当時の様子は憶測でしかわからない部分が多く存在している。ダグパンに城塞が築かれるようになったのもこの時期とのことらしいが詳しい建築方法などについては一切判明していない。
3代国王リ=フラの代になるとタガログ王国は安定した国家として成立するようになっていた。それを受けてリ=フラはタガログ人が住む地域の外への遠征を開始した。これは事実上他民族を支配する事と同じであり、リ=フラはその覚悟をもって遠征をおこなった。しかし、リ=フラの遠征は失敗に終わった。というのも当時周辺には後に
イリュクノ王国を建国する勇猛果敢なイリュクノ族やタガログ人とほぼ同数の人口を誇るイロカノ人などが存在していた。それゆえにこの遠征による他民族の支配も一筋縄ではいかず、結局リ=フラは周辺地域を少し手に入れただけで一生を終える事となったが4代国王イブラ=フラはこの経験を生かして支配による領土の拡大ではなく懐柔による領土の拡大をすることを決定した。
まず、周辺地域の他民族との交易を行い、少しずつ関係を深めて友好的な関係を作ると自国の領土に組み込むことを提案。その際に相手が不利にならないようにすることで相手の反発を防ぎつつ周辺地域を支配下に置くことに成功した。このイブラ=フラの行動によりタガログ王国の領土は倍近くにまで広がり、最盛期と呼ばれる時代となった。
しかし、192年に次期国王となるはずだったカリィ=フラが死去し、孫に国王を継がせようとしたがカリィ=フラの弟であるミカル=フラが反対。長男を失い一気に老け込んでいたイブラ=フラはミカル=フラの言うがままに彼を次期国王に定めた。とはいえミカル=フラを慕う人物は多く、一族の半分以上がこの決定に賛同していた。それに加えてマンマ=フラが粗暴で荒々しい性格をしていたこともあり彼が国王になる事に懐疑的な思いを持つ者が多かったことも拍車をかけていた。
212年、イブラ=フラが死にミカル=フラが国王となるとタガログ人達の反応は様々であった。もともと長男一家の家系が国王となる事が暗黙の了解として存在していたために当時25歳のマンマ=フラを差し置いて国王になるのはどうかという意見が存在したからである。しかし、意外にもミカル=フラの他民族とも強調する姿勢を知っている他民族はこれを受け入れて祝福している。マンマ=フラはタガログ人による王国を作りたいと考えていて他民族を排斥する傾向にあるから彼に国王となってほしくはなかったという思いもあった。
しかし、当然ながらこれをマンマ=フラは受け入れられずに215年にクーデターを発生させた。それ以前にマンマ=フラは自身の長男と次男を殺し、ミカル=フラ側の仕業に見えるような証拠を残させていた。更に自身が暗殺されかけることでミカル=フラが自分を恐れて殺そうとしていると宣言し、クーデターを起こしたのである。
マンマ=フラの言葉にタガログ人の6割ほどが納得し彼側についていた。そしてミカル=フラが対応する間もなく彼の一族や自分に歯向かった者を粛清していき、僅か1月でクーデターは成功に終わった。このクーデターにより王国は一時的に混乱に陥り、さらにはマンマ=フラの国王即位を聞いた他民族が次々と王国から離反したことでタガログ王国の領土はリ=フラの遠征以前にまで戻ってしまっていた。
国王となったマンマ=フラは離反した他民族への懲罰遠征を開始した。この遠征によりイロカノ人は8割近くが殺されたとされ、今日にイロカノ人と呼べる民族が残らない直接的な原因となった。更にもともとルソン島西部に住んでいたイリュクノ族はこの遠征を恐れて東に逃げ延び、のちに
イリュクノ王国を建国するきっかけとなっている。
マンマ=フラの死後、王位は三男であったチュル=フラが継いだが遅くに出来た子であったために甘やかされて育った彼は見事に愚王と化した。国庫を浪費のために使い果たし、気に入らない人物は次々と処刑。更には仮と称して他民族を虐殺するなどマンマ=フラ以上に他民族を虐げるようになったことで他民族の不満が爆発。彼の晩年に周辺民族が一斉にタガログ王国へと攻撃を開始した。これによってタガログ王国は290年に国家機能が崩壊する事となった。
そしてこのタガログ王国の崩壊をきっかけに周辺の民族は自分たちの国家を作り上げていくことになり、約30年後にはイリュクノ王国が建国される事となる。
王国崩壊後のタガログ人は村単位のコミュニティで細々と生活していたがイリュクノ王国が西部にまで領土を広げたことをきっかけに再びタガログ人としての意識が覚醒。チュル=フラの三男の子孫であるルーラ=フェル・マグを筆頭にイリュクノ王国の侵攻をアラミノス会戦で退けると新たな王国の建国を宣言し(
第二次タガログ王国?)、再びタガログ人の国家を持つにいたる事となる。