神戸線の特許取得時から阪神電鉄は阪神急行電鉄を快くは思わなかった。当初は山沿いを走るため同情的なコメントを残していたが、開発が進むにすれてライバル視していった。阪神は客を逃さないために併用軌道をなくし所要時間を35分に。増発もすることなどで「待たずに乗れる」といった宣伝も行った。競争はこういった客のみならず沿線でも行われていた。
「えべっさん」と呼ばれ親しまれている西宮神社は阪神西宮駅から非常に近く参拝客が多く利用していた。これに目を付けた阪神は西宮北口駅と夙川駅の間に臨時駅の西宮戎駅を置くことで参拝客を獲得する計画を立てた。しかし阪神は臨時駅から西宮神社までの道の街灯を消すという妨害工作を行った。
小林は阪神急行電鉄になる前に学生野球(六大学野球)や全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)をみたことで更なる野球の発展を見込み、職業野球球団構想を立ち上げている。日本初のプロ野球球団であった日本運動協会が解散した際にはこれを宝塚運動協会として発足させている。(1929年に解散)阪神が西宮市の甲子園に阪神甲子園球場を建設し、後に読売新聞社が大日本東京野球倶楽部(いまの
読売ジャイアンツ?)を設立すると三大都市圏においての野球試合を開催する構想に乗り、阪神が甲子園を本拠地とする
大阪タイガースを設立し、1936年には宝塚球場を本拠地とする阪急職業野球団(後の
阪急ブレーブス)を設立した。両者は後にセ・リーグとパ・リーグに分かれ、両チームが日本シリーズにて相まみえるのは2014年になった。
沿線開発では、六甲山開発と尼宝電鉄の例が挙げられる。阪急は六甲山を開発することで更なる収益をもくろんだ。しかし、それに対抗し阪神もロープウェイなどを建設。バブル崩壊まで両社は六甲山の開発で争っていた。
1924年に阪神が出資し、宝塚尼崎電気軌道という会社が設立される。この会社は阪神本線の出屋敷駅から宝塚に至る路線を開業させようとしていた(尼宝線)。一方、阪急は神聖なテリトリーでもある宝塚に阪神の進出を防ぐために尼崎西宮宝塚循環軌道として西宮の海岸部を走る路線の特許を申請。対抗した阪神は同様のルートで特許を申請。結果として阪急の一部区間を除き特許が降りた。尼宝線は尼崎市からの高架化要請や尼崎駅起点への変更などもあったが後述する北大阪電気鉄道を取り合う関係になった
京阪電気鉄道?との協力によって開業することになった。後に同社は阪神電車に統合され、同路線は
阪神尼宝線?となった。
1922年に阪神は
神戸線?の内側へ行くトロリーバスの計画を立てる。対抗した阪急は
甲陽線?の敷設認可を得た。甲陽線は1924年に開業するが阪神のトロリーバス計画は頓挫した。