一辺707平方メートルの50haの正方形の敷地内に5の漢民族風建物と30の西洋風建築の建物によって構築されている。周囲は幅50mの水濠が囲い、7mの底幅10mの堀が覆っている。南に大礼門、東に朱雀門、西に金鶏門を有する。北方はウルハン族などの民族の出入り口とされたため門が作られていない
*1。紫禁城の名は大神国で最も高貴な色とされた「紫」に関する歌から二文字が取られ紫禁城になったとされる。
北の最奥部には歴代夜去皇帝や夜去官の墓地である「夜去廟」と北禁総長の住居である正和殿が置かれている。夜去廟は三棟の夜去民族風建築を持つ建築様式を取っているが、正和殿は名と裏腹に超洋風な建物である。
この夜去廟には30名の神官と40名の女官が常に住まい、廟に祀られた人を祀っていた。現在でも11名の神官と女官が一切廟の敷地外に出ないようにこの廟を守っている。
この2つの施設がある最奥部を「内宮」と呼び、帝国代のときは厳しく立ち入りが制限され、この敷地に入れるのは東北平原や中華地域の間接的統治者である「中華総督」しか入ることができない区域であり、皇帝であっても簡単に立ち入ることのできない地域であった。
区域のちょうど真ん中には執政機関である「閣部」が置かれ、2府8省1台と中華の治安維持に関わる「御取締方」の庁舎が置かれていた。合計20の巨大な建物が迷路状に配置され、内宮に攻め入ることができないように配置されている。