明治天皇が即位し、新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指した。
それまで政治の中心地となっていった京都の新政府内部から、新たに天皇親政を行うにあたって遷都を行おうという声が上がっており、主に大坂がその地として意識され、主に参与・大久保利通によって「浪華遷都(大阪遷都)」の建白書が提出された。しかし、大坂が京都に隣接しているとは言え、遷都を行えば千年の都である京都を放棄することとなるとして、これには抵抗が大きく、公卿ら政府内の保守派の激しい反対を受け、廃案となった。
江戸が無血開城された直後、前島密による「江戸遷都論」の建白書が大久保に提出された。「衰退の心配がない大坂よりも、世界随一の大都市で、帝都にしなければ寂れてしまう江戸の方に遷都すべき。帝都は国の中央にあるべきで、大阪は小さく道路も狭小、江戸は諸侯の藩邸などが利用でき官庁などを新築する必要がないこと」などを江戸遷都の理由としており、後に大久保も、江戸を東京とすることが良策だとし、東京遷都を支持する。
また、佐賀藩出身の大木喬任と江藤新平が、「東西両都」の建白書を提出した。これは、東日本を治めるため江戸を東京とし、ここを拠点にして人心を捉えることが重要であるとし、ゆくゆくは東京と京都の東西両京を鉄道で結ぶというものであった。
保守派や京都市民への配慮から、東京奠都を明確にはしなかったものの、東西両京の方針通り、事実上の東京への遷都が決定した。天皇は、明治元年9月20日に京都を出発して東京に行幸した。天皇は10月13日に江戸城へ到着、江戸城はその日のうちに東幸の皇居と定められ東京城と改称された。
当初は、天皇は一時的に東京に「東幸」することになっており、京都への還幸が決まっていた。先帝(孝明天皇)の三年祭と立后の礼を行う必要があるという岩倉の意見があり、1868年(明治元年)12月8日、天皇はひとまず京都に還幸し12月22日に到着した。このように、しばらくの間は天皇が東京と京都を行き来していたが、1871年(明治4年)までに刑部省・大蔵省・兵部省などの京都留守が次々に廃され、中央行政機関が消えていき、京都への還幸を延期され続け、東京が本格的に事実上の首都として発展していくこととなる。