独立後、イトゥルビデが国家運営に失敗したため、1823年にアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍が共和制を支持して反乱を起こすと、イトゥビルデは失脚して退位し、1824年10月にはメキシコ合衆国憲法が制定されてメキシコは連邦共和国家となった。これは長きにわたるメキシコの政治的準内戦の始まりであった。サンタ・アナが1827年にスペインによる再侵略の可能性に備えてスペイン人の追放政策を実施したため、流通業を担っていたスペイン人がいなくなってメキシコ経済は大混乱し、1827年には最初の債務不履行に追い込まれた。さらにイトゥルビデ追放後も保守派と自由主義派による政権争いが激化した。サンタ・アナは権力掌握の過程で保守派に傾いたため、1829年にかつてイトゥビルデと協力していた自由主義者のビセンテ・ゲレーロがクーデターによって大統領になった。ゲレーロはスペイン人の完全追放、黒人奴隷制廃止、教会財産の接収、キューバの独立の支援など急進的改革を行ったため、国内での反発とメキシコの再植民地化を目指したスペイン軍による再征服を招いた。急遽復帰したサンタ・アナ将軍の活躍によりスペイン軍は撃退されたが、この戦争の結果保守派の影響力が強化され、1830年に1月に保守派のアナスタシオ・ブスタマンテ副大統領が反旗を翻し、ゲレーロは政界から追放された。
メキシコは再び大混乱に陥り、1847年にはユカタン半島のマヤ族が白人支配に反旗を翻してカスタ戦争が勃発した。1853年にはアメリカ合衆国南部出身の海賊ウィリアム・ウォーカーが傭兵を率いて侵略を行い、独自にバハ・カリフォルニア共和国を樹立した。ウォーカーはメキシコでは政府軍に撃退されるが、後にニカラグアを占領し、大統領となった。保守派の大物政治家ルカス・アラマンはこの混乱を収拾できる唯一の人物だと見込んで、サンタ・アナを再びメキシコシティに呼び戻した。サンタ・アナはアラマンとともに事態の収拾に奔走したが、1853年6月にアラマンが死去するとサンタ・アナは独裁者となった。しかし彼の保守的な政策は自由主義者からの反発を生んだ。
(サンタ・アナの肖像画。)
1855年にサンタ・アナが追放され、アルバレスら自由主義者が臨時政府を樹立すると、臨時政府は自由主義に基づいた「レフォルマ」改革を行った。徹底した政教分離による保守勢力の後ろ盾となっていたカトリック教会を政治に口出しできないようにし、フアレス法により司法制度の近代化を図り、先住民を含めた全てのメキシコ人の法の下での平等を実現した。さらに1857年には新憲法を制定した。このレフォルマ改革はメキシコ社会に大きな影響を与え、近代的な価値観がメキシコにもたらされた。しかしその反面、既存の保守派の猛反発と共に共同体コミュニティを失った農民らの保守派への合流をも引き起こし、1856年には全国各地で農民と保守派による大反乱が起きた。
1857年12月1日に新憲法下初の大統領選挙によって自由主義穏健派のコモンフォルトが就任したが、12月17日にスロアガ将軍がクーデターを起こしコモンフォルトは失脚した。しかし、時の最高裁判所長官であったベニート・フアレスのみは保守派への徹底抗戦を誓ってアメリカ合衆国に亡命、軍を募ってベラクルスに上陸して臨時政府を樹立した。フアレスのベラクルス臨時政府は3年に及ぶ長い戦いの末1860年12月25日にメヒコ市を攻略し戦争を終結させたが、内戦の際に膨らんだ有償支援の返済が追いつかなくなり、後の債務不履行に繋がることになった。1861年にメキシコが債務不履行を宣言するとメキシコへ多額の借款を貸し付けていたフランスを中心に連合軍が派遣され、メキシコ全土で激しい戦いが行われた。この戦いで、ポルフィリオ・ディアスが活躍し、結果メキシコは独立を守ることができた。
1857年憲法を軸に新たに打ち建てられた復興共和国では自由主義者が主導権を握ることになったが、自由主義者の中にも文民派と軍人派の二つのグループが存在した。フアレスに代表される文民派は、フアレスを除いて概ね高等教育を受けた白人であり、理想主義的な傾向を有していた。一方、ディアスに代表される軍人派は概ね教育を受けていないメスティーソであり、現実主義的な傾向が強かった。どちらも自由主義者達であり、メキシコの近代化・西欧化を図る点では同じであったが、この差異は近代化政策を実行する際の手段の差になって顕在することになった。
フアレス政権は戦争によって膨張した軍備の削減に努め、大軍縮を実践した。経済面ではメキシコにおける資本主義の発展が目指され、外国資本の導入による国内開発が進んだ。1871年の大統領選挙では現職のフアレス、、フアレスの後輩であった文民派代表のセバスティアン・レルド・デ・テハーダ、フアレスと対立していた軍人派のディアスの3人が立候補し、フアレスが勝利したものの、1872年7月にフアレスが急死したためにレルドが大統領に就任した。しかし、1876年にはディアスがレルドの再選に反対して軍内における圧倒的支持を背景にクーデターを起こした。ディアスはレルドを追放した後の1877年に選挙を行い、大統領に就任した。
(フアレスの肖像。文民派の代表としてメキシコの近代化に貢献した。)