現在の福知山線の基となった川辺馬車鉄道は、尼崎と伊丹の伊達尊親・梶源左衛門・小西壮二郎ら13名が発起人となり、1887年(明治20年)に設立された。この時の計画路線は江戸時代からの街道に沿ってクネクネと曲がっているものだった。
川辺馬車鉄道の設立者たちは1889年(明治22年)に神崎−伊丹−篠山−福知山−舞鶴間を結ぶ摂丹鉄道の設立を出願した。これは川辺馬車鉄道を延長し、蒸気鉄道に変更する計画であった。当時、軍港として発展が見込める舞鶴へ至る鉄道敷設は、摂丹鉄道のほかにも、京鶴鉄道(京都−舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪−園部−舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪−綾部−舞鶴)、南北鉄道(加古川−舞鶴)、播丹鉄道(姫路−生野−舞鶴)の5つの民営鉄道が舞鶴への鉄道敷設に名乗りをあげており、積極的な免許許可運動が展開された。
1891年(明治24年)2月に起工、7月に大物−長洲間が仮開通し、尼ヶ崎(後の尼崎港)まで開通する。その後、運行距離を伸ばし、同年9月には、川辺郡庁所在地の伊丹まで開通した。官線(現在の
東海道本線)との乗換駅となる長洲駅付近では、官線と直角平面交差となっていた。路線計画では、伊丹停車場から2又に分かれ、生瀬、小戸(現在の川西池田駅)へと向かう計画線となっていたが、川辺馬車鉄道時代には実現していない。
馬車鉄道では輸送力が小さく、開業当初から輸送需要に応えきれなかった。貨車も保有し貨物も取り扱っていたが、安定した営業となっておらず、馬車鉄道の形態では限界があった。結果、蒸気動力を用いた軽便鉄道としての「摂津鉄道建設願」を川辺馬車鉄道の名前で1892年(明治25年)6月に提出。川辺馬車鉄道を解散し、別会社として摂津鉄道が設立されることになったのである。
1893年(明治26年)3月より伊丹駅−池田駅間の延伸工事を開始した。川辺馬車鉄道とは軌間が異なっていたため、尼ヶ崎駅−伊丹駅間の改軌工事も同時に行っている。同年10月より尼ヶ崎駅−賀茂間で試運転を行い、同年12月に尼ヶ崎駅、長洲駅、伊丹駅、池田駅の4駅で開業。1894年(明治27年)3月に大物駅、塚口駅、伊丹南口駅も開業した。馬車鉄道では尼ヶ崎駅−伊丹駅間が1時間を超えていたが、尼ヶ崎駅−長洲駅間を約9分、長洲駅−伊丹駅間を約18分で交通できるようになった。
しかし、川辺馬車鉄道では許されていた平面交差が認められず、汽車が官線をまたぐことは許可されなかった。このため、長洲駅を官線の北側と南側の2か所に分けて、列車は折り返し、乗客は歩いて乗り替えを行うこととなった。ただし、貨物のみ人力で押しての通過は認められていた。
その後、日本海側の重要な軍港であった舞鶴への鉄道敷設計画がさかんに立てられており、摂津鉄道もそれらの中に組み込まれていくこととなった。最終的に1897年(明治30年)2月、大阪から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道に路線を売却して解散した。