1981年、第四インターナショナル連邦共和国では従来分離していた空軍と防空軍が統合されて航空・防空軍が誕生した。当時、アメリカやガルマニアをはじめとする周辺の超大国では高い機動性と視程外交戦能力を両立した第4世代ジェット戦闘機の大量生産・大量配備が進められていた。一方の航空・防空軍では、ソビエト連邦から導入したMiG-21のライセンス生産型であるC-7戦闘機が数的主力で、さらにC-7戦闘機の設計を元に双発化したC-8迎撃戦闘機やカナード翼を追加したC-9前線戦闘機の配備が進行中というような状況であった。仮想敵国の強力な第4世代ジェット戦闘機に対抗するには、C-8やC-9といった新鋭機ですらやや力不足であり、航空・防空軍では速やかに第4世代ジェット戦闘機を導入することが必要不可欠であると見做されるようになった。
C-7 | vs F-4 | vs F-16 | vs F-15 |
視程内戦闘 | 互角 | 劣勢 | 劣勢 |
視程外戦闘 | 劣勢 | ━━ | 劣勢 |
C-8 | vs F-4 | vs F-16 | vs F-15 |
視程内戦闘 | 互角 | 劣勢 | 劣勢 |
視程外戦闘 | 互角 | 優勢 | 劣勢 |
C-9 | vs F-4 | vs F-16 | vs F-15 |
視程内戦闘 | 優勢 | 劣勢 | 劣勢 |
視程外戦闘 | 劣勢 | ━━ | 劣勢 |
※当時第四インターナショナル連邦共和国航空・防空軍が装備していた戦闘機と、同時期のアメリカ空軍が装備していた戦闘機の性能比較。第四インターナショナル連邦共和国航空・防空軍の戦闘機が、質的に大幅に劣勢であることがわかる。
このような認識に基づき、1984年、航空・防空軍は「多用途前線戦闘機」と「長距離制空戦闘機」の2種類の戦闘機の調達計画を始動した。C-11戦闘機は、このうち前者の計画に基づくものである。計画では、少なくとも4000kg以上の兵装類を携行可能とすること、視程外戦闘能力および精密誘導対地兵器の運用能力を備えること、C-9戦闘機を上回る機動性を発揮すること、増槽なしで2000km以上の航続距離を持つことなどが要求されていた。当初はこの要求に基づき、ソビエト連邦からMiG-29戦闘機ないしはその改良型が導入される予定であった。
しかし、1985年に極秘裏に行われた性能評価で、MiG-29は航空・防空軍の上層部を満足させることができなかった。航空・防空軍の上層部が特に問題視したのは、その運用コストであった。前時代的な機械式リンク機構と、技術的に成熟しきっていないクリーモフの新型エンジンが、MiG-29の運用コストを第四インターナショナル連邦共和国にとって許容しがたいほど高価にしていた。また、同時並行して検討されていた「長距離制空戦闘機」計画では、Su-27系列の機体の採用がほぼ確実とされていたが、MiG-29はSu-27とは異なる系統のエンジンを採用しており、ただでさえ信頼性に難がある新世代の大出力エンジンを複数種類同時に導入するのは稼働率に深刻な悪影響を及ぼす可能性が高いと懸念されていた。
この頃より、航空・防空軍の一部の軍人の間で、C-8、C-9戦闘機の開発・製造で近代的な戦闘機を開発するだけの技術的な準備が整ったとして、「多用途前線戦闘機」の計画には国産機をあてがうべきだとする意見が表出し始めた。1986年、航空・防空軍は「多用途前線戦闘機」について、ミコヤン・グレヴィッチ設計局の技術協力を受けながら、自力で開発を完遂し、国産第4世代ジェット戦闘機として完成させることを正式に決定した。開発にあたっては、ミコヤン・グレヴィッチ設計局が80年代前半より検討していた輸出向け軽量戦闘機の図面が大いに参考とされた。
第4世代ジェット戦闘機の技術的なハードルは非常に高く、予想よりも開発は大幅に難航した。特に困難だったのが、当時最新の技術であるデジタル式フライバイワイヤの開発だった。1991年には試作初号機が初飛行していたが、飛行制御システムのエラーによって制御不能となって墜落する事故が発生した。このため、試作2号機で飛行試験が行われることとなったが、これも1992年に墜落した。飛行制御システムのエラー修正のため生産スケジュールは遅れに遅れ、当初は1993年からの配備を予定していたが、最終的な配備開始は1995年までずれ込んだ。