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メキシコ内戦
1942年〜1944年
場所メキシコ全土
結果赤衛軍の勝利
交戦勢力
国防軍赤衛軍
指揮官
ウエルタ2世レフ・トロツキー
兵力
740000人(1942年)
380000人(1944年)
1210000人(1942年)
3410000人(1944年)
損害
400000人以上不明

背景

1932年、ソビエト連邦より貨物船に乗船して亡命したレフ・トロツキーはメキシコシティの私邸を拠点とする共産主義運動を開始した。当時のメキシコは皇帝ビクトリアーノ・ウエルタ2世を名乗るウエルタ・ジュニアが統治していた。ビクトリアーノ2世は国家の経済規模の拡大を目指したが、その結果第二次産業偏重で外国との貿易に依存した経済システムが構築されてしまった。さらに当時発生した世界恐慌により国内の貿易に頼っていた産業が壊滅的打撃を受け、第二次世界大戦が始まり、ドイツのUボートや巡洋艦による通商破壊が活発になると、原料の輸入が滞るようになりさらに経済は停滞した。その状態でもビクトリアーノ2世は軍備拡張を行い続けたため、国家経営はさらに厳しくなり、通貨の大量発行で深刻なインフレーションを引き起こした。メキシコ北部では1940年にクリオージョらによる大規模な武装蜂起が発生した。ビクトリアーノ2世はこの蜂起を約2ヶ月で鎮圧したが、この際鎮圧した軍は各地で略奪行為を働いたため現地住民との間に禍根を残すこととなった。このような社会不安の高まっている時期にメキシコに現れた共産主義勢力は広く歓迎を受け、急速に勢力を伸ばしていった。ビクトリアーノ2世は経済政策の失敗を「共産主義者による破壊活動が原因である」と責任を転嫁して共産主義運動を厳しく弾圧し始めた。これに対してトロツキーの組織した共産党は1942年9月16日(この日はメキシコ独立記念日である)、共産党労農行動隊(後に赤衛軍と改称)を先頭にデモ行進を行い、メキシコ第二革命の必要性についてスペイン語での演説を行った。共産党を中心とする「メキシコシティ臨時評議会」が成立し、ウエルタ・ジュニアの退位とメキシコ合衆国憲法の遵守を求める決議を全会一致で採択した。こうして9月革命と呼ばれる運動が始まった。そんな中トロツキーの演説に熱狂した民衆の一部が王宮に侵入して警備兵に射殺される事件が発生、労農行動隊と政府側の武力衝突へと発展した。

経過

メキシコシティの戦い

「メキシコシティ臨時評議会」の成立に対抗するため、ビクトリアーノ2世は士官学校の生徒たちを動員してメキシコシティ内部の武器庫や官公庁などを防衛させたが、蜂起の2日後には共産党宣伝局の巧みなプロパガンダ活動によってメキシコシティ市民の大半は赤衛軍を支持する側に回った。市内3箇所の武器庫には合計300人の士官学校生徒が立てこもっていた他、メキシコシティ・メトロポリタン大聖堂や王宮付近は200人近くの警備兵が厳重に防衛していたが、王宮付近に集結した市民団体へ警備兵が発砲したことでついに全面的な武力衝突に発展、王宮には1万人以上の市民が押し寄せ、ビクトリアーノ2世はアメリカ大使館員の車でかろうじて逃げ延びた。ビクトリアーノ2世の逃亡を知った士官学校生徒らは失望し、独自に「メキシコシティ防衛委員会」を設立して赤衛軍への対応を練ったが1週間以内に全ての部隊が降伏した。共産党労農行動隊は赤衛軍と改称され、20万人を超える市民兵がこれに参加した。
ビクトリアーノ2世はグアダラハラ駐屯の第3師団とサンルイスポトシ駐屯の第5師団に赤衛軍の武装蜂起鎮圧を命じた。10月5日、第3師団はメキシコシティ郊外のトルカを、第5師団はティサユカを占領したが、10月8日のメキシコシティ南東部ラ・メヒカーナ公園での戦闘で第3師団が敗北、翌9日には第5師団がエカテペック周辺での戦闘で敗北したことで形勢は逆転した。メキシコシティ周辺の都市でも市民が市役所や警察署や郵便局や水道局を占領し、「都市臨時評議会」を設立、赤衛軍の支持を表明した。武器庫の警備を担当していた警備兵たちでさえもビクトリアーノ2世を見放しており、各都市の武器庫は自由に開放され、赤衛軍の銃器は国防軍のそれと変わらぬレベルまでに充実し始めた。蜂起の波はメキシコシティの周辺地域にも押し寄せており、もはや早期の鎮圧は不可能なレベルに達していた。ビクトリアーノ2世の予想よりも革命運動の波及が速かったために、周辺都市の駐留部隊でメキシコシティを制圧するという彼の計画は崩れ去ることとなった。事実上の無政府状態となったメキシコでは、各州が自治評議会を成立させた。
ウエルタはチワワ州に航空機で亡命したのち、同地の8万人の軍勢を直接指揮してメキシコシティへ攻撃を試みた。だが、反ウエルタ派の住民のゲリラ的抵抗で進軍を阻まれ、さらに兵士の間でもウエルタを裏切るものが続出、メキシコシティに辿り着く前に軍勢は引き返した。

南部自治評議会の赤衛軍支持

メキシコシティで国防軍が大敗したことはメキシコ南部にも伝えられた。ベラクルス州、オアハカ州、チアパス州、タバスコ州の州評議会は合同で「南部メキシコ民主議会」を設立してメキシコの各州に参加を呼びかけ、政情の安定化を求めていた。11月12日、ゲレーロ州に赤衛軍12万人が侵入し、同地の第8歩兵師団14000人を打ち破ると、アカプルコのゲレーロ州評議会は赤衛軍支持を表明し、政府側勢力の積極的な追い出しにかかった。続いて赤衛軍は南部メキシコ民主議会にベラクルス州、オアハカ州、チアパス州、タバスコ州の軍事通行を認めるように要求した。17日、南部メキシコ民主議会は赤衛軍の支持を表明、この地域は赤衛軍側に寝返った。
11月18日から、ベラクルス市とオアハカ市で「反革命分子」の捜索が相次ぎ、12月31日までの間で11万人を超える人々が逮捕された。逮捕された人々の中は大半が公務員や商人だったが、中にはベラクルス市の港湾で働いていたというだけでアメリカのスパイとの嫌疑をかけられた者もいた。

ヴェネーラ攻勢

南部から追い出された資本家や軍閥は私兵組織を率いてユカタン半島に侵入、メリダやカンクンを拠点とした。しかし彼らは住民に歓迎されず、時には赤衛軍シンパの住民から攻撃を受けることもあった。1942年12月8日、メリダ州臨時評議会は赤衛軍支持を否決したが、議員の一部が買収されていたことが判明し、怒り狂った市民により議員がリンチされて殺害される事件が発生した。この事件を契機にユカタン州は南北に分裂、集落レベルに設置された評議会が赤衛軍を支持するかどうかを巡って争った。集落内部では敵のスパイとされた人物に対する攻撃が加速、2万人以上が死亡した。メリダ州南部の評議会より要請を受け、赤衛軍は介入を決定、12月28日から2月14日までの間に30万人以上の赤衛軍兵士がこの地域に侵入した。メリダ市では資本家の住む地区に対して略奪が行われた。

プルトーン攻勢

1943年4月、メキシコ北部に対して赤衛軍は攻撃を開始した。プルトーン攻勢と呼ばれるこの計画に基づき、第一段作戦が発動、サカテカス州に42万人の赤衛軍が侵入し、サカテカス州評議会を包囲、サカテカス州は赤衛軍支持を表明した。続いて第二段作戦が発動され、モンテレイとシウダードビクトリアを目指した攻撃が始まった。しかしこの戦いではメキシコ帝国軍の持つ米国製戦車が猛威を奮った。メキシコ帝国はM3スチュアートやM4シャーマンを始めとする強力な戦車を保有しており、赤衛軍の騎兵部隊よりも攻撃力・防御力・機動力全てにおいて勝るこの部隊は赤衛軍を圧倒した。赤衛軍の当時の主力戦闘車両といえば、馬車やトラクターに機関銃を備え付けただけのものばかりで、この武装の差は大きかった。加えて赤衛軍の歩兵の大半は戦車というものを見たことがなく、一部の部隊に至っては戦車を見るだけで逃げ出すほどだった。結果、第二段攻勢は失敗、赤衛軍は20万人以上の損失を出し、さらにメキシコ帝国軍の攻撃で第一段作戦で占領したサカテカス州を奪い返されるという有様だった。

マルス攻勢

1944年2月末、赤衛軍はバハ・カルフォルニア州を攻撃することを決定した。住民から提供された700隻ほどの漁船・貨物船、さらに米国製の輸送船によってラパス近郊へ上陸を開始した。3月頭には予定されていた揚陸作業全てが完了し、赤衛軍は橋頭堡を確保した。3月14日、橋頭堡の21万の赤衛軍は北上を開始、物量を生かして国防軍を各個撃破した。この頃になるとアメリカは全体主義的なウエルタ政権ではなく、社会主義的な赤衛軍を支援するようになっていた。赤衛軍は米国製の大量の兵器を用い、米国の軍人に訓練され、さらに多くの実戦経験を積んで精強な軍へと生まれ変わっていた。この作戦は非正規軍が行った中で史上最大の上陸作戦であった。4月2日、バハカリフォルニア半島北部のティフアナが陥落した。

ウラヌス攻勢

6月、トロツキーは「第二次メキシコ中部攻勢」と題した作戦計画を立案、120万人もの兵士を投入したこの大攻勢では、新設された戦車部隊が防衛線を切り開くため投入され、さらに火砲と航空機によって徹底的な支援も行われた。1944年6月11日、赤衛軍は約1時間もの砲撃の後、戦車などを投入して浸透を開始、さらにそこに市民兵が続いた。赤衛軍は米国国内で生産された簡素な構造のマシンガンを市民兵に大量に供与しており、塹壕戦でこれは有効だった。1944年7月にウエルタ軍の防衛線の2箇所が突破され、ウエルタ軍の組織的戦力は壊滅した。この攻勢は成功し、エルモシージョまでを赤衛軍は奪取した。投入された兵力の延べ人数は、赤衛軍221万、クリオージョ連合軍14万と推測されており、最終的にはクリオージョ連合軍が物量で押し切られる形となった。9月、メキシコ社会帝国軍は赤衛軍に降伏した。メキシコ第二帝政およびメキシコ内戦は終焉し、第四インターナショナル連邦共和国が建国された。

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