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サーミランド?及び民族を示す旗(ノーリスフラッグ、極光旗とも)

概要

サーミ人は、フェノスカンディア連邦共和国ノルウェー州?スヴェーリエ州?フィンランド州?北部に位置する
サーピ(Sápmi)に住むフィン・ウゴル語系の先住民である。サーメ人の祖先は他のウラル系民族と同様、
現在のロシア帝国?のヴォルガ地方に住んでいたとされており、彼らの伝統的な言語はサーミ語で、ウラル語族に分類される。

サーミ人は伝統的に、沿岸漁業、毛皮の捕獲、羊の放牧など、さまざまな生業を営んできた。
最もよく知られているのは半遊牧のトナカイの飼育であり、現在サーミ人の約10%がトナカイの放牧に従事しており、肉や毛皮、輸送手段を提供している。
ノルウェー州では、およそ3,000人のサーミ人がトナカイの飼育に従事している。
伝統的、環境的、文化的、政治的な理由から、連邦共和国内の多くの地域では、トナカイの飼育は法的にサーミ人だけのものとなっている。

分類

大きくサーミ人と括られてはいるが、生活様式はそれぞれ大きく違いがあり、主に5つの種類に分かれているといえる。
サーミでよく使われるこの5区分は、職業と居住地域に基づくものであり、この区分は多くの歴史書でも使用されている。
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トナカイ・サーミ人または山岳サーミ人(北部サーミ語でboazosapmelashまたはbadjeolmmosh)

 トナカイを飼う遊牧民として暮らしているが、近年は定住する山岳サーミ人も多い。トナカイ放牧はサーミ文化の基本であり、北欧諸国のではサーミ人のみが行うことができるとされているが、
実際にはサーミ人の約10%しかトナカイの放牧を行っていない。

海岸サーミ人(北部サーミ語では "mearasapmelash")

 伝統的に漁業と小規模な農業を組み合わせて生活している。現在では、職業に関係なく、海岸に住むサーミ人すべてに使われることが多い。

森林サーミ人

 内陸の川や湖での漁業と小規模なトナカイ飼育を組み合わせて生活している。

都市サーミ人

 現在、サーミ人の中で増えてきている新しいサーミの生活様式。
海外を対象とした観光業で主に生計を立てており、観光客向けの開放地区またはその近郊に定住している。
ドゥオジを取り扱う小さな店や、あらゆる地方のサーミの食を取り扱うレストランなどの商業施設のほかにもガイドになるサーミ人が多い。
中にはスウェーデン語やノルウェー語、フィンランド語を学習し海外に移住するサーミ人も増加傾向である。
この緩やかな近代化により徐々にサーミ文化は消失しつつあり、また人口についても減少傾向であるが、ノーリス議会ではこれは真に自由な自治の中の生き方の選択として好意的にとらえられている。
強制的な文化の強制というのは、つまり今まで受けてきたサーミ人のいわば迫害の歴史をなぞるような事であり、自由を手に入れたサーミ人によってサーミ人の生き方を決めるのはあってはならないとされている。
 

呼称

主に北部サーミ語の話者は、自分たちのことをSámit(サーミ人)またはSápmelaš(サーミ人の親族)と呼び、
Sápmiという単語は様々な文法形式に屈折している。他のサーミ語では同義語を使用している。
現時点でサーミ語は「土地」を意味する原バルト語から借用されたというのが通説である。

古ノルド語が徐々にフェノスカンディアの各方言に発展していく中で、スヴェーリエ人は現在のフィンランド州の住民を指してFinnを使うようになり、
サーミ人はLappsと呼ばれるようになった。しかしノルウェー州においては、少なくとも現代までサーミ人はフィンランド人と呼ばれていたが、
これは今日のFinnmark、Finnsnes、Finnfjord、Finnøyなどの地名に反映されている。
北部ノルウェー人の中には、今でもサーミ人を指すのにFinnを使う人がいるが、サーミ人自身はこの呼び方は不適切だと考えており、
18世紀と19世紀に北ノルウェーに移住してきたフィンランド人は、
サーミ人の「フィンランド人」と区別するためにKvens(かつてフィンランド州の地域にあったとされる地域または国家であるクヴェンランドからとられている)と呼ばれていた。
サーミ人をラッピ人、そして住んでいる地域の事をラップランドと呼ばれていたことがあるがこれは蔑称とされている。

サーミの人々は、少なくとも5000年前から北ヨーロッパに住んでいるとされ、伝統的に彼らは、沿岸漁業、毛皮の狩猟、羊の飼育など、さまざまな生業を営んできた。
彼らの最も有名な生計手段は半遊牧のトナカイの放牧であるが、それは一部の民族の文化に過ぎず遊牧に携わっているサーミ人はサーミランド全体の10%以下である。

地域

一般的にサーミ地方と言われる大部分は、北極圏の北側に位置している。
西部はフィヨルド、深い谷、氷河、山々が連なる地域で、最高地点はスヴェーリエ州北部にあるケブネカイゼ山(標高2,111m)である。
他にも北西から南東に流れる大河が特徴である。
ノルウェー州のトロムス県とフィンマルク県から東に向かっては、湿地や湖が多い低地の地形となっており、その最大のものはフィンランド州のラップランド地方にあるイナリ湖である。
北東部はツンドラ地帯だが、永久凍土は存在しない。

気候

気候は亜寒帯気候で、南部の密林地帯を除き植生はまばらである。山岳地帯の西海岸は、山脈の東側に比べて冬が非常に穏やかで、降水量も多い。
北極圏の北側では、冬は極夜、夏は白夜となり、どちらも北に行くほど長くなる。サーミ人は伝統的に、1年を4つの季節ではなく8つの季節に分けている。

資源

トナカイ、オオカミ、クマ、鳥などが主な動物で、短い夏には無数の昆虫が生息する。この地域では、海や川での漁業が盛んである。
いくつかの湖では汽船が運航されており、多くの港では一年を通して氷がなく、西のノルウェー海と北東のバレンツ海からムルマンスクまでのすべての港は一年中氷が張らない。
一方でボスニア湾は通常、冬になると氷結する。
サーミの北と西の海底には石油と天然ガスの鉱床があり、サーミ諸島には貴重な鉱物資源がある。
特にスヴェーリエ州の鉄鉱石、ノルウェー州の銅、フィンランド州のニッケルとアパタイトが有名であるが、環境に配慮をしている為大規模な採掘は限られている。

文化的区分

東サーミ
東サーミはコラ半島とイナリ湖の地域からなり、東部サーミ語族の本拠地である。
サピ島で最も人口の多い地域であるが、先住民やその文化が最も希薄な地域でもある。
中央サーミ
中央サーミは、スオミ州のサーミ族居住区の西部、ソルトフィエレ山地より北のノルウェー州の一部、およびこれに対応するスヴェーリエ州の地域で構成されている。
中央サーミは、サーミの文化が最も強い地域で、最も広く使われているサーミ語である北部サーミ語が話されている。
しかし、この地域の最南端では、サーミの文化はやや弱く、ここでは守備範囲の広いビトゥン語のサーミ語が使われている。
ノルウェー州のタイスフィヨルド・フィヨルドとスヴェーリエ州のルーレ川の周辺には、より広く使われているサーミ語のひとつであるジュレフ・サーミ語がある。
南サーミ
南サーミは、ソルトフィエレの南側の地域と、それに対応するスヴェーリエ州の地域で構成されており、南部の言語が話されている。
この地域では、サーミの文化は内陸部とバルト海沿岸で主に見られるが、サーミ語はほとんど話されていない。

主な都市

以下の町や村には、サーミの人口が多いか、サーミの施設があ多く存在している。
北サーミ地域
タナ?
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テュスフィヨール?
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エノンテキエ?
-

コフィヨルド?
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キルナ?
-

カウトケイノ?
  • サーミ人の文化的首都のうちの一つである。
  • 人口の約90%がサーメ語を話している。
  • カウトケイノでは10以上のサーミ人の機関の事務所等が所在している。
  • サーミ語の新聞や、サーミ語の出版社・レコード会社など、サーのミメディアがいくつか存在する。
=カウトケイノでは、「サーミ・グランプリ」(サーミ音楽祭)や「トナカイ・レーシング・ワールドカップ」などのイベントも開催されている。
  • 1675年に起きたカウトケイノの反乱は、かつてのスヴェーリエ=デンマーク連合王国のサーメ人への抑圧に対する数少ないサーミ人の反乱のひとつである。この町から始まった反乱によりサーミ人全体が連合王国に反乱を起こし、和解に繋がった。

イェリバーレ?
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ヨックモック?
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カラショク?
-

ポルサンゲン?
-

ウツヨキ?
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トロムソ?
-

ネセビー?
-

南サーミ地域
ハットフェルダル?
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アリエプローグ?
-

エステルスンド?
  • 南部サーミ人の中心地
  • ここには、南部サーミの文化、歴史、ビジネスに関する情報を提供する南サーミ文化センターがある。
  • また、サーミ情報センターや、スヴェーリエ州のサーメ議会の事務所のひとつもここに所在している。
スノーサ?
-
東サーミ地域
エナレ?
  • スオミ州?の中で最大の広さを持つ自治体、ただし人口は最少
  • 州内で最も多い4つの公用語を持つ。
その主な収入源は、観光業、サービス業、寒冷地試験である。
  • エナレ村にあるシーダ博物館を中心に、サーミ文化の中心地であり、「サーミ文化の首都」として広く知られている。
  • イヴァロの空港と国の南北の要である州道4号線により、保存状態の良い混雑していない自然環境にアクセスできるリゾート地を求める夏と冬のバカンス客が訪れる。

ロヴォゼロ
  • ロボゼロ湖からほど近いビルマ川の両岸に位置し、コラ半島の行政中心であるウスヴァ?から南東に164kmの位置に存在する。
  • 人口は3000人弱である。
  • 主な商業は、農業とトナカイ飼育の協同組合である。他にも漁業や狩猟、クラウドベリーの収穫も重要な仕事である。

歴史

狩猟、漁業、交易を中心としたサーメ人の伝統的な生活様式は、北欧諸国が連邦共和国として連帯し始めてからも守られている。

起源

サーミ人の歴史は石器時代まで遡る。
現在一般的に考えられているのは、ノルウェー沿岸への最古の入植はノルウェー南部と中部のフォスナ文化と北部のコムサ文化と呼ばれていたものからなる、
一つの文化的連続体に属するということである。この文化複合体は、ヨーロッパ北西部の最終旧石器時代のアーレンスブルグ文化から派生したもので、
最初はノルウェー南部に広がり、最終氷期の終わりに氷河が後退して新しい地域が開拓されると、この文化は急速にノルウェーの海岸線に沿って広がっていった。

フォスナという言葉は、ホルダランドからノルトランドまでのノルウェーの海岸沿いにある最も古い集落を総称したものである。
北極圏以北の石器文化をコムサと呼んでいたがその区別は近年なくなりつつある。このコムサという言葉はもともと北ノルウェーの中石器時代全体を指していたが、
現在では北ノルウェーの中石器時代を3つの部分に分け、単に第1期、第2期、第3期と呼んでいまる。東ノルウェーで最も古いフォスナの集落はオストフォールドのホグニペンにある。
シュタイゲンの新石器時代の個体やその他のスカンジナビアの個体からは、東の狩猟採集民と西の狩猟採集民の混血が見られ、
両集団の中核地域から北ノルウェーやスカンジナビア全体に移動したことが示唆されている、このような混血は後期新石器時代まで続いていた。

中世

歴史的には、サーミ人は長い間フィンランド州全土と東カレリアに居住していたが、
ハーメ、サヴォ、カレリアからの入植者がこの地域に移住した後、東サーミ人はフィンランド人やカレリア人の集団に同化した。
フィンランドの南海岸にあるヌークシオなどの地名は、かつてサーミ人が居住していたことを証明するとされている。
しかし、フィンランドやスカンジナビアからの入植者と次第に混ざり合い、文化や言語を失っていった。
現在のノルウェー州の地域に居たサーメ人の居住地域が過去にどのくらい南に広がっていたかは現在も研究中であり、歴史家や考古学者の間で議論されている。
多くの説ではサーミ人は1500年頃まではノルト・トロンデラーグ郡のリーネよりも南に住んでいたが、その後南下を始め、18世紀にはフェムンデン湖周辺に到達したと推測されている。

サーミ人の歴史についてここまで諸民族と違って今でも多くの謎を残している理由については、遊牧民であり、文字を持たなかったため文字資料を残さないからと考えられている。

中世の南ノルウェーの山岳地帯にはノルド人とサーミ人が混在していたと考えている。 1500年頃までのサーミ人は、主に漁師と罠猟師を組み合わせており、トナカイの移動に合わせて遊牧生活を送っていた。
1500年頃になると、サーミ人がノルウェー、スウェーデン、ロシア等に税金を払わなければならなかったこともあって、過剰な狩猟が行われ、トナカイの数が減り始めた。
その後、ほとんどのサーミ人はフィヨルドや海岸、内陸の水路沿いに定住し、牧畜、罠、漁業を組み合わせた仕事をするようになった。
少数のサーミ人がトナカイを飼い始め、トナカイ遊牧民として知られるようになったのもこの頃である。
現代のサーミ人は、外部の人からはこのような典型的なサーミ人のライフスタイルを実践しているように見られがちであるが、伝統的な暮らしをしているのはサーミ人全体の約10%に過ぎない。

バイキング時代以降、サーミの文化はどんどん北上していったと考えられているが、バイキングとの戦いを裏付ける調査結果はまだ出ていない。
そのためおそらくほとんどが同化したものと考えられる。

外国との交易関係も古くから存在し、動物の皮や毛皮が最も一般的な商品で、塩や金属製の刃物、さまざまな種類の硬貨等に交換された。
硬貨については装飾品として使われた。
北ノルウェーの海岸沿いでは、鉄器時代にサーミ人の文化は、しばしば北欧の入植地の拡大と北欧の有力な首長からの課税によって圧力を受けた。
鉄器時代の北ノルウェー沿岸における北欧とサーミの関係がどのようなものであったかについてはいまだに議論が続いているが、
恐らく白海周辺のフィン・ウゴル人の敵から身を守るために、北欧の首長たちと同盟を結ぶことにしていたと考えられている。

14世紀には魚の交易をきっかけにして、北欧人の入植の波が再び押し寄せる。しかし、これらの高度に専門化した漁業共同体は、サーミ人の生活様式にほとんど影響を与えず、中世後期には、時折交易が行われる以外はほとんど接触することなく、2つの共同体は並存することができていた。

中世以降

15世紀以降、サーミ人はしばしば大きな圧力を受けるようになる。周辺国であるスヴェーリエ=デンマーク連合王国、ロシアがサーミ地方に関心を持つようになったのである。
この時点では上記の通りスヴェーリエ=デンマーク連合王国はサーミ人と共存していて平和な暮らしをしていたが、ロシアの拡大主義によりその勢力はバレンツ海沿岸までに及びはじめる。
ロシアはサーミ人への課税権を主張し、進出するようになるとそれに対抗する為防衛する代わりにと連合王国側もまたサーミ人へ徴税する事になる。
これにより狩猟は激化し、野生のトナカイの数は少しずつ減少していった。
この為サーミ人は何か別のことをしなければならなくなった。そこでトナカイの飼育を限定的に始めた。
飼いならされたトナカイは、野生のトナカイを崖の上や狩猟用の溝に誘導するように訓練された。トナカイの飼育は強化され、サーミ人の大半は、内陸部の川やフィヨルド、海岸沿いに定住する事になる。
更に海や淡水での釣り、その他の狩猟、牛や羊、ヤギの飼育によって、食生活や収入を増やしていった。
トナカイやその他の動物はサーミの文化の中心的な役割を果たしていたが、今日ではトナカイ飼育はサーミの人々にとって経済的に重要ではなくなってきているのも事実である。
トナカイの飼育がいつ頃から始まったのかは未だに議論の対象であるが、16世紀には確実に税の徴収が行われていた。
16世紀以降になるとサーミ人は貨幣で税金を納めており、大規模な畜産はこの時代よりも古くないと提唱する歴史家もいる。

連合王国時代,ラップマルケン

ラップマルケン、又はラップマルクとは、かつて連合王国の北部にあったサーミ人が住む地域の名称である。
現在のスヴェーリエ州のラップランドに加えて、ヴェステルボッテン、イェムトランド、ハルイェーダレン、そしてフィンランド州のラップランドも含まれた地域である。

中世にはすでにラップマルケンと言う名称が存在し、サーミ人は王室によって緩やかに統治されていた。ラップマルクの目的は、主に植民地化であった。
当初、ラップマークは、ボスニア湾からフィエルドまでの川の流域とその周辺地域で構成されていた。初期のラップマークは以下の通りである。
  • リクゼール(ウメ川流域)
  • オーセーレ・ラッパーク(オンゲルマン川流域)
  • トルニオ・ラップマルク(トルニオ川渓谷)
  • ピテオー・ラップマルク(ピテ川渓谷)
  • ルーレ・ラップマルク (ルーレ川渓谷
  • ケミ・ラップマルク(ケミ川流域、1633年にトルニオ・ラップマルクから分離)
17世紀には、国が管理する町が設立され、ラップマルケンは国の管理下に置かれた。1634年にノールランド郡が設立され、この地域の国家管理が行われたが、並行してラップマルケンの概念がサーミ人と入植者との関係を規制し続けた。
1673年のラップマルク公布では、サーミ地方に入植した者は15年間税金が免除され、いかなる戦争にも兵士として参加しなくてよいことが定められた。
サーミの人々は国庫に大きく貢献していたため、入植者は「使われていない」とされる土地にのみ入植することが許された。 この布告は1695年に更新される予定であった。

これに対しサーミの人々はこれに激しく抗議し、ついには紛争(カウトケイノの反乱)に発展した。
当時のスヴェーリエ=デンマーク連合王国はウェストファリア条約によってノルウェー海からバルト海への覇権を確実にし、非常に大きな勢力として欧州に存在していた。
軍事力は当時の状況から非常に高く、海と多く面していたが意外にも陸上戦力の面でも優れていて、当時の政府は簡単に制圧できるだろうとされた。
しかし実際には地の利に優れていて、そして連合王国人より寒冷である地域に適応していて尚且つ狩猟民族でもあったサーミ人に対して劣勢となってしまう。
そして自体を重く見た政府はサーミ人に大きく譲歩する形での和平を結ぶ事になり、事実上の敗北となった。

余談だがこの際諸外国及び国民に対してそのまま「先住民族に喧嘩を売って負けた」と言うのは、当時の連合王国政府にはあまりにも屈辱的であった。
そこで連合王国政府は大々的に「先住民族を保護する極めて文明的かつ民主的な国家」として宣伝することになるが、
これによって国民の意識が変わるようになりやがて王政の緩やかな崩壊に繋がる。
そしてバルト楯状地に住む人間が隔たり無く、真の平等な生活を送れる為にと、従来の民族にまつわる名前では無く地名であるフェノスカンジアに国名を変え、
当時としては先進的な国家形態であった連邦共和国になり、現在まで成立し続ける事となる。

サーミ人の生活様式は、北極圏の環境に独自に適応しているため、南からの文化的な影響に対抗することができ、長い間、北部で最高の地位を占めていた。
実際、18世紀に北ノルウェーの人々が魚価の低下とそれに伴う過疎化に苦しんでいたとき、サーミ人は南ノルウェーからの供給に依存しなかったため、サーミ人の文化的要素は強化されたとされている。

1900年以降

第二次世界大戦時ではフェノスカンディア連邦共和国や周辺国とナチス・ドイツ及びソビエト連邦の間で、
所謂第二次大北方戦争が勃発する事になりサーミ人の居住域も戦火に巻き込まれる事になる。
この時、基本には徴兵免除の対象となっていたサーミ人であるが、政府によって積極的に志願者の招集が行われた。


文化

食文化

地方によって異なる、農耕をするサーミ人の主食は芋の他様々な物がある。

手工芸

ドゥオジはサーミの伝統的な手工芸品で、サーミが現在よりもはるかに外界から孤立していた時代にさかのぼる。
ドゥオジの道具や衣類、アクセサリーは、機能的で便利なだけでなく、芸術的な要素が盛り込まれることもある。サーミのデュオジ・アーティストたちは、機能と芸術を繊細に融合させ、
それ自体が美しい芸術作品となっている。
このような機能的なアイテムには、ナイフ、ケース、婦人用バッグ、木製のカップ、特定の衣類などがある。Duodjiのアイテムは、日常の仕事の中で使われることを前提に作られている。

ドゥオジは装飾性よりもまず目的にかなうものでなければならないと考えていた。
男性は主に木や骨、鹿の角を使って、鹿の角の柄をしたスクリムシャー付きのサミ・ナイフやドラム、グクシ(羊皮製のカップ)などを作る。
女性は革や木の根を使って、ガクティ(衣服)や白トウヒの根で編んだバスケットなどを作っている。
サーミの伝統的な色は、赤、緑、青、黄色であり、様々な箇所に使われている。
ガクティ
以下はガクティの一例、個人毎に柄はそれぞれであり同じ模様のガクティは存在しない。

Gákti(ガクティ)は、フェノスカンディアの北部地域に住むサーミ人が着用する伝統的な衣服である。
ガクティは、儀式の際にも特にトナカイの放牧の際にも着用されている。
サーミの伝統的な衣装は、対照的な色の帯、編み込み、ピューター刺繍、ブリキ細工で飾られた色が特徴で、多くの場合、高い襟が付いている。
ノルウェー語では「kofte(コフト)」、スウェーデン語では「kolt(コルト)」と呼ばれている。
ガクティの外観は場所によって異なり、北部よりも南部では長くなる傾向がある。伝統的には革、糸、羊毛が使われてきたが、今日ではベルベットやシルクも使われている。

衣装の色や模様、装飾は、その人の婚姻状況や出身地を示すことがある。女性用と男性用のガクティがあり、男性用のガクティは女性用よりも裾が短くなっている。
ガクティは、ベルト(プリーツ、キルティング、または銀ボタン)、銀のアクセサリー、伝統的な革靴、シルクのスカーフと一緒に着用する。
ベルトのボタンが四角い場合は着用者が結婚していることを示す。丸いボタンの場合は未婚である。
フィネスコ
フィネスコとはトナカイの皮で作られた伝統的なサーミ人の冬の履物である。トナカイの皮は柔らかいため、厚いブーツの革のように固く凍ることはなく、氷点下の気温に一晩さらされても比較的簡単に履くことができる。
フィネスコは、伝統的にトナカイの足や頭の柔らかい皮で作られており、毛皮がブーツの外側になるように縫い付けられている。
ソールでは、雪の中での歩行性を向上させるために、毛皮が異なる方向に行くように中央にカットされたピースが組み立てられている。
ブーツのシャフトには、雪がブーツの中に入らないようにするために、幅広のストラップ(北サーミ語ではvuoddagat、ノルウェー語ではskallebåndと呼ばれる)が何列にも巻かれており、装飾性の高いものが多い。
伝統的には、ブーツの中に草(センネグラスなど)を入れて、足を乾燥させたり温めたりしていたが、現在では代わりにフェルトのスリッパやバレンキを履くのが一般的である。
サーメ人のブーツの硬いつま先部分の湾曲した形状は地域によって異なるが、役割は共通している。
ククシャ
樺の木を削って作った伝統的なデュオジの酒器である。
白樺の葉は、大まかな形に整えられ、木が割れないように丁寧に乾燥させた後、地元の伝統に沿って成形される。
白樺カールのククシャは、普通の白樺ククシャよりも長持ちする。もともと北極圏では、グクシ、ククサとも呼ばれ個人用の飲料カップとして広く使われていたが、よくできたククシャは一生ものである。
メンテナンスとしては、伝統的には使用後にきれいな水で洗って布で乾かすだけである。洗剤を使うとククシャが傷むと考えられており洗剤は使っていない。

現代ではガラスや陶器、金属製の酒器が登場したことで、このようなデュオジの作品を作る技術は、昔のように必要不可欠なものではなく、娯楽のための技術となっている。
今ではブッシュクラフトにも使われている。このような使い方をする場合は、使う人が彫ったり、友人からのプレゼントの場合がほとんどである。

デザイン

伝統的にサーミ人の芸術は、機能的な適切さと鮮やかで装飾的な美しさを兼ね備えていることが特徴である。
この2つの特徴は、サーメ人のアニミズムに象徴される自然への深い敬意、所謂シャーマニズムから生まれたものである。
サーメ人の宗教は、シャーマニズムの中で最も完全な形で表現されており、神が住んでいると考えられていた奇妙な形の岩や木の切り株である「シーテ」への崇拝に見られる。
西洋的な意味での絵画や彫刻は、サーミ文化における20世紀の革新であり、季節のリズムに依存した汎神論的な文化の重要な側面を維持し、発展させるために用いられた。

宗教

伝統的なサーミ人の精神的慣習や信仰は、アニミズムや多神教、所謂シャーマニズムとみなすものに基づいている。
宗教的な伝統はサーミ地方の中でも地域によって大きく異なっている。

音楽(ヨイク)

ヨイクとはサーミに伝わる伝統的な歌の形式であり、歌い手はヨイカーと呼ばれる。
地方によってそれぞれ細かい違いはあるが、根底には自然の音を模倣し人、動物、場所を反映したり、呼び起こしたりするために用いられている。
サーミの文化にはかつて文字がなかったため、ヨイクの起源は正式には記録されていない。
口承によれば、北極圏の妖精やエルフがサーミ人にヨイクを与えたとされている。研究者たちによって、ヨイクはヨーロッパで最も古くから続く音楽伝統のひとつであると考えられている。
ヨイクは文化に強く根付いており、現代までその伝統は維持され続けている。ヨイクは現在でも行われており、インスピレーションの源として利用されている。
最近では、ヨイクは伝統的なスタイルと、若者を中心に歌われ、現代のサーミ音楽の要素として使われている現代的なスタイルの2つの異なるスタイルで歌われている。

性質

しばしばヨイクはサーミ人にとっては独特な文化表現としてとらえられている。
この種の歌は深く個人的なものや精神的なものが多く、人間や動物、風景に捧げられることが多い。
それぞれのヨイクは人や場所を反映しているが、これはヨイクが"その人や場所についての歌"ではなく、ヨイカーが"歌を通してその人や場所を呼び起こしたり描いたりしようとしている"ことを示しているとされている。

シャーマニズムとの関係

サーミ人のヨイクの中には、シャーマニズムの儀式の際に歌われたものも存在する。シベリア等の北極圏の先住民族と共通点が多く、自然からの音を模倣する点は北アジアの様々な文化と同様である。

形式

伝統的にヨイクは短い歌詞を持つか、もしくは全く歌詞を持たない。
しかし、より長い歌詞を持つ拡張された意味でのヨイクとしては他の形態もある。ヨイクは伝統的にアカペラで唱えられるが、現代ではドラム(サーミの伝統的なドラムではなく、儀式にのみ使用されるもの)や他の楽器を伴うこともある。
ヨイクの調性は主にペンタトニックであるが、自由に好きな調性を使うことも可能である。
北部サーミの地域では、ほとんどのヨイクは個人的なもの、つまり特定の人と結びついたものであり、その人が生まれたときに作られることが多い。
余談ではあるがオーロラのヨイクはそれほど存在しない、つまりサーミ人はオーロラについてあまり語らないのである。
これは、ヨイクは上記の通り人、動物、場所を反映するものでありサーミランドにとっては広く一般に見られる気象の一つであるオーロラは神聖視こそはされるものの、ヨイクの題材として使うには不適切なためである。

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