架空国家を作ろうの1.1世界線です

近代

ロシア内戦

ソ連の成立

第二次世界大戦

ソビエト連邦は第二次世界大戦においてはナチス・ドイツと不可侵条約を締結していた。ドイツが1941年にソ連に侵攻すると、一転して連合国側として参戦することになった。
1939年、ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が開戦した。ドイツのポーランド侵攻の際にはポーランドの東半分のガリツィアなどを占領し、ドイツと分割した。ポーランド占領時、ポーランドの政治家・軍人など2万5000人を無裁判で銃殺したことが明らかにされている。(カティンの森事件)
またソ連は、バルト三国に圧力をかけてソ連軍の進駐と親ソ政権の樹立を要求し、その回答も待たず進駐した。さらに親ソ政権を樹立して反ソ分子をシベリア送り、虐殺・逮捕・拷問し、ついには併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアの割譲を要求。1940年6月にはベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。これらの一連の行動は国際連盟から非難を受け、追放されてしまった。
大祖国戦争
1941年6月22日、ドイツ軍がバルバロッサ作戦を始動してソ連に侵攻し、大祖国戦争が開戦した。この時連合国側として第二次世界大戦へ参戦することとなった。ソ連軍は初期の対応に遅れを取った事で大敗を喫し、一気に首都モスクワまでドイツ軍が進撃する場面もあったが、軍民一体の頑強な抵抗により撃退に成功している。また、日ソ中立条約による日本の脅威がないこと、アメリカ・イギリスによる西部戦線における攻勢のおかげでレニングラード包囲戦やスターリングラード攻防戦に勝利し、さらにアメリカの大量のレンドリースのおかげもあってドイツ軍への攻勢作戦の実行が可能となった。バグラチオン作戦といった反撃を機に、数百万のソ連軍が西へ逃げるドイツ軍を追撃してベルリンへ迫った。最終的に首都ベルリンを陥落させ、戦勝国となった。ソ連は国土の深くまでドイツ軍に浸透された為、ソ連軍の死者は1000万人を超え、民間人の犠牲を入れると2000~3000万人が死亡したとされる。第二次世界大戦の交戦国の中でも最大の犠牲を払い、侵略者に勝利した。ナチスの侵略でソ連軍は強烈な復讐心をドイツ・ポーランド・ハンガリーといった東欧諸国で放ち、略奪と性暴力を繰り返して民間人女性の性被害は歴史上最悪の200万人である。

現代

冷戦

終戦以前からアメリカ合衆国とソビエト連邦は対立し始めていた。終戦後になると、ソ連は東欧ブロックを形成して東欧の占領地域にソ連に従属する衛星国を設置した。1955年にはワルシャワ条約機構を東側諸国と結成した。1956年にはフルシチョフがスターリン批判を行ったため、ソ連に抑圧されていた東側諸国に動揺が走ったが、ハンガリー動乱、ポーランド暴動などといった民主化運動を武力で弾圧した。ハンガリー動乱ではソ連軍が2万人の民間人を射殺した。1968年のプラハの春もソ連率いるワルシャワ条約機構軍を投入して弾圧した。
冷戦後半にはアフガニスタン侵攻などの事件が起き、1980年のモスクワオリンピックには西側諸国がポイコットし、1984年のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国がポイコットした。また、アメリカとソ連は軍拡競争を展開した。ソ連はNATOとの冷戦や計画経済の行き詰まりにより次第に疲弊し、東欧革命といった東欧諸国の民主化やソ連からの離反が始まった。

アフガニスタン侵攻

1979年12月24日、ソ連軍はアフガニスタンの共産主義勢力を支援するべく軍事介入を行う。3日後には国家保安委員会の活躍により、ハフィーズッラー・アミーン第2代革命評議会議長を殺害。バプラク・カールマルを新たなアフガンの指導者とし、親ソ政権を樹立した。
共産主義政権とソ連軍に対してムジャーヒディーンと呼ばれる抵抗軍が戦った。この組織にはアメリカ合衆国が極秘裏に武器供給していたことが明らかとなっており、ムジャーヒディーンの支援に数十億ドルを費やしていた。ムジャーヒディーンにはイスラム諸国から来た20万人の義勇兵が含まれていた。
この戦争においてアメリカ製の兵器とソ連製の兵器が衝突し、特にM1エイブラムスがT-72を一方的に破壊したことや、改良されたT-72にM1エイブラムスを一方的に破壊したことがある。
1年半の間、ソ連軍は猛烈な縦深攻撃を行いつつムジャーヒディーンを壊滅させ、1981年6月2日にムジャーヒディーンは降伏した。共産主義政権が樹立されるもその2ヶ月後の8月13日にソ連へ併合され、アフガン・ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となった。

冷戦の終焉と崩壊の危機

冷戦や計画経済の行き詰まりによるソ連の崩壊の危機は1980年代初頭から想定され始めていた。しかしゴルバチョフの登場で、ソ連は改革開放を行い社会主義市場経済に移行することで、停滞していた経済を成長させた。
また、1989年のマルタ会談においてソ連はアメリカと冷戦の終結を宣言。1981年にアフガニスタン侵攻が終結したことや冷戦の終結によりソ連は過剰な軍備と軍事費の削減に成功し、国民の不満に応えられたことでソビエト連邦は崩壊を免れた。

ゴルバチョフ改革

1985年に書記長となったミハイル・ゴルバチョフはペレストロイカ?改革開放?政策を実行し、マルタ会談にて冷戦を終結させ、ソ連の安定化に集中した。1980年代はゴルバチョフ路線のもと、経済の改革開放が進み、経済はアメリカの経済成長率を追い抜いて急成長し、1990年代からは高度経済成長期に入った。世界第2位の経済大国を今に至るまで維持している。ただ、急激な経済成長に伴う貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また、貧富差の拡大による官僚や高級将校の汚職の増大も問題であり、これは2000年代に入ってから厳しく取り締まられた。ペレストロイカにより、大統領選挙、信教の自由、基本的人権の尊重、出国の自由、表現の自由がある程度認められた。

強いソビエト

元KGBのウラジーミル・プーチンは、2000年3月の大統領選挙に勝利し、正式に大統領として就任した。改革後のソ連は国内問題の増加でチェチェン独立派勢力によるテロや分離活動が激化し、プーチンは構成国の分権化の廃止から中央集権化、法による独裁を強靭に進めた。改革開放後から国家資産を半ば私物化し、共産党の権力を奪おうとしていたオリガルヒの制圧に乗り出し、ソ連の国益に適う企業のみを残し、裏から国家が統制する仕組みを作っていた。こうした手法は諸外国より批判される一方でソ連の世論は強く支持した。また、プーチン政権ではソ連国内に眠る豊富な天然資源が功を奏し、より高い経済成長を遂げ、ゴルバチョフ時代と比べ貧困も半減した。一方、プーチン政権では反政府的なジャーナリストたちが不審な死を遂げるなど、政権の関与が疑われる事件も多数発生した。しかしそれ以上に国民はプーチン氏の強力なリーダーシップを支持しており、それが明らかにされることは全くない。プーチンは2008年に任期満了で退任し、後継指名のドミートリー・メドヴェージェフ氏が2008年大統領選挙にて勝利し、大統領に就任した。プーチン自身は閣僚会議議長として政界に止まりその多大な影響力から実質的な最高権力者の座を維持していた。2012年の大統領選挙より大統領任期を6年とする憲法改正案も議会の賛成多数で承認され、自身の再登板の足がかりを得ている。
2008年の大統領選挙より大統領に就任したドミートリー・メドヴェージェフ氏はプーチン路線の警鐘を発表。メドヴェージェフ氏はプーチン氏を閣僚会議議長に指名し、双頭体制を築いた。しかしながら2008年にはリーマン・ショックが起き、ソ連もダメージを逃れることはできなかった。そこでメドヴェージェフ政権は内需拡大を目ざし、世界経済から分離することで今後起きる経済的なダメージを減少させるとした。結果的に国内の内需は大きく拡大し、世界経済からの影響力を減少させた。
2012年の大統領選挙ではプーチン氏が再選し、強いソビエトの建設はさらに増進した。シベリアの大規模開発プロジェクト、交通網の増設、北海ルートの開発、近隣諸国の脅威に適切な軍事力の配備、先端技術物資の国産化、食料の増産を目ざし、ソ連国内の大量の資源と食料と人口を活かしソ連の完全な自給自足体制の構築を成功させた。その結果、経済制裁の影響を回避または減少させ、非常時平時共にもっとも強固な土台を築いていると言える。プーチン政権は欧米諸国やナチスの大東亜などとの対抗心や愛国心を鼓舞し、未だ残っている社会問題の解決に取り組もうとしている。
対テロ戦争
パキスタン侵攻
自国第一主義と孤立化
第1次プーチン政権、第2次プーチン政権を経てソ連は自国第一主義と孤立化を深めている。
第1次プーチン政権では、パキスタン戦争やチェチェン紛争、反ソ分子への弾圧から西側諸国から非難されていた。パキスタン戦争ではパキスタンが核開発を行っていることを受け侵攻が決定し、

コメントをかく


「http://」を含む投稿は禁止されています。

利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

国際社会・各種データ

国際機関

軍事同盟

国際イベント

各国データ

宇宙

宇宙

人物

人物

その他

歴史・設定

歴史

メンバーのみ編集できます