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ロイヤルクラウン

そこ!タマモクロスとか言うな!
概要
品種サラブレッド
性別牡馬
毛色芦毛
生誕1992年
死没存命(30歳)
シャドウブラック
クイーンロイヤル
母の父ハリケーン
生国大東亜国家社会主義国
生産ロイヤルファーム?
馬主考えてない
調教師考えてない

競争成績

生涯成績 

15戦14勝(内G1:9勝、国営15戦14勝)

獲得賞金

21億5680万圓

主な勝鞭

大京新星杯(ジュニア)
香港スチュワーズカップ(クラシック)
上海記念(クラシック)
香港ゴールドカップ(クラシック)
香港チャンピオンズ・チャーターカップ(クラシック)
大京帝国賞(クラシック)
総統賞(八月)(シニア)
総統賞(十一月)(シニア)
香港カップ(シニア)

書きかけ、ゆるして

概要

ロイヤルクラウンは、大東亜国家社会主義国の競走馬、種牡馬。

競走馬として

生い立ち

ロイヤルクラウンは1990年ロイヤルファームにて誕生。母クイーンロイヤルはロイヤルファーム創業以来初の牝馬G1馬、父シャドウブラックは初代総統賞連覇馬、母の父であるハリケーンは初代香港三冠馬と、輝かしい血統であったにも関わらず、同期のG1馬であるレッドハロンやほぼ同時期に日本で活躍したナリタブライアンなどと比べると、全体として目立った特徴が無い馬体であった。

0歳で競りに出されると現在の馬主(名前考えてねぇんよ)が1億1000万圓で落札。この時の心境を馬主は「何か言葉では例えようの無い、そんな超神秘的な何かに惹かれた」と1995年の二冠達成後のインタビューにて語っている。馬名の由来は生まれた牧場の名前である「ロイヤル」とたくさんの冠を手に入れて欲しい(多数のG1勝利を飾って欲しい)という願いからロイヤルクラウンと名付けられた。

落札後、ロイヤルクラウンはロイヤルファーム敷地内に存在する広範囲放牧地にて他の所属する馬と共に運動を行った。ロイヤルファーム場長はその様子を「いつもは他の馬とも仲良くしている様子を見せているが、いざ走るとなると性格が変わったように、自分を誰も抜かさせないという気概が遠目からでも分かるほどだった。しかも、ロイヤルクラウンは他の馬が疲れでバテた後でも1頭だけで日が沈むまでずっと走っていた。」と語っている。

その後、ロイヤルファームの中でも更に施設が充実した近放牧地に1歳5ヶ月で移動。大人しく、人懐っこかった為、大した抵抗も無く育成ができたという。

入厩

その後、1994年の4月に陽江トレーニングセンターの現在の調教師の厩舎に入厩。この時、調教師はこの馬のかなり温厚な人懐っこい性格を見て、去勢されていないか確認したという。

入厩後1ヶ月半で、坂路の調教を行った際に、指示した57秒台を大きく上回る52秒で出した。これをみた調教助手はロイヤルクラウンを心配し駆けつけたが、ロイヤルクラウンは汗一つ流さずケロッとしていたらしい。その後、騎乗する騎手も決まり、デビュー戦6日前にトレセン内のウッドチップコースにて2000mを2分5秒6という異常なタイムで走り抜け、その場に居た者全てを驚かせたという。
2歳から3歳(1994年〜1995年)

デビュー戦からダブル三冠達成へ

ロイヤルクラウンはデビュー戦として94年の8月に大京競馬場開催の新馬戦に出走。上がり3ハロン32秒5という驚異的な速度で駆け抜け、2着に8馬身差を付けて勝利。新馬戦にして世間からの注目を一気に集める事となった。

その後2戦目のOP戦である天津ステークス、3戦目のG3九龍ステークスを快勝すると、ロイヤルクラウンはG1である北京杯ステイヤーズステークスに出走する事を決定する。しかし、実はこの出走の前走である九龍ステークスのレース後、厩舎でのトレーニング中に内因性鼻出血を起こしており、これも相まって世間の評価は半々と言ったところであったが、一方のロイヤルクラウン陣営では調教師や騎手、馬主全てが勝利を確信していたという。レースでは、序盤は最後方だったものの、上がり3ハロン32秒89という凄まじい脚で2着に4馬身の差を付け優勝。初戦でG1制覇というのは大東亜競馬史上初めての事例であり、これを機に世間には一気にロイヤルクラウンの名が知れ渡ることとなった。なお、心配要素であった鼻出血だが、習慣化される事は無かった。

続く2戦目には新春最初の大一番で香港スチュワーズカップ?のトライアル競走でもある香港海軍賞典に出走。このレースでもロイヤルクラウンは最後方からスタートを切り、第三コーナー末にて一気に加速、3馬身差で勝利した。このレースの勝利によって、ロイヤルクラウンは香港三冠最有力候補に推される事となるが、この報道に対し、馬主は「香港三冠だけだと思わないで頂きたい」と当時の取材でコメントした。

そして迎えた第40回香港スチュワーズカップでは、単勝支持率67.8%と初代香港三冠馬で母の父であるハリケーンの叩き出した72.5%に次ぐ歴代2位を獲得した。レースは順調なスタートを切ったものの、第三コーナー途中で掛かり始め、それに気づいた騎手が初めて鞭を入れたことで、最終直線で2着に5馬身差で勝利。この時、大東亜通信競馬部の実況は「!これが期待の新星白馬!大きな衝撃を大東亜競馬にもたらすのか!」と実況した。また、大京新星杯勝利馬による香港スチュワーズカップ勝利は史上6頭目、加えてこの競走では1分58秒61というレコードタイムを叩き出した。

レース後、大東亜通信競馬版を始めとする各競馬新聞は「香港三冠確実」と報じたが、このレース後3日後のロイヤルクラウン陣営は会見にて、「次は上海記念に出走」と発表した。発表後すぐ波紋が広がり、次走が香港ゴールドカップでない事に対し疑問を持つ者が大量に起こったが、これに対しロイヤルクラウン陣営側から発表は無かった。

衝撃の発表から1ヶ月半後の第35回上海記念では、前走の香港スチュワーズカップから気持ち下がった単勝支持率66.8%となったものの、だとしても歴代4位の支持率となった。レースは順調なスタートを切り、第3コーナーまでは最後方だったが、第4コーナーで大外から一気に追い込みをかけ、タイム2分24秒1で2着と4馬身差で上海記念を優勝した。この勝利で、ロイヤルクラウンは「史上初の香港無敗三冠馬最有力候補」から「史上初の無敗ダブル三冠馬最有力候補」と呼ばれる事となる。

余談であるが、このレース直前、ロイヤルクラウンを直前まで見守っていた調教師は「とても落ち着いていて、なんだか自分の勝利を確信しているように見えた」と語っている。

次走には大衆の予想通り、香港ゴールドカップを陣営は選択。レースまでの約3ヶ月の間、陽江トレセンで1ヶ月、香港競馬場で2ヶ月の調教・調整が行われた。しかし、この時点でロイヤルクラウンは調整のしようが無い程だったと言われており、この調整の真の目的は、ある程度運動させつつ、今後ダブル三冠を狙う為に、ゆっくり休息させるためだったとも言われている。

そして夏初戦、加えて香港三冠リーチがかかった第25回香港ゴールドカップにロイヤルクラウンは出走。ちなみにこの香港ゴールドカップは、観客が前年比168.9%増加という何がなんだか分からない増加の仕方をした。

レースではやや出遅れて最後方のスタートとなったが、第3コーナーで上海記念とは打って変わって内の僅かなスキマから一気に飛び出し、2着と7馬身差で圧勝した。勝ちタイム1分57秒15はレコードタイムであり、この記録は2021年現在も破られていない。この勝利によって、まず香港三冠へのリーチをかけた。

次走には香港チャンピオンズ&チャターカップを選定、香港三冠を取りに行く一方で、更にその次走で、長距離競走である大京帝国杯への調整も始めた。

そして1ヶ月後、香港三冠をかけ第41回香港チャンピオンズ&チャターカップに出走。動員数19万5976人に加え、会場外の高層ビル等の遠距離観戦を含めると20万人を超える観客が沙田競馬場に押し寄せた。会場内外では東亜競馬会が販売したロイヤルクラウンのグッズなどが売られていたが、午前8時に1万個用意されていた人形が完売したのを皮切りに一気に売り切れた。単勝支持率は81.5%、倍率1.0倍(元返し)と香港競馬場での最高記録を達成した。

レースでは、順調なスタートを切ったものの、第2コーナー途中で掛かってしまった。しかし、騎手が馬群の中に合えて入れるという臨機応変な対応をしたことで第4コーナーでは落ち着きを取り戻し、そのまま内から追い込みをかけて2着に1馬身半差で優勝。これにより、史上初の香港無敗三冠馬が誕生することとなった。ゴールの瞬間、実況は「香港でまずは香港三冠を勝ち取った!偉業は冬の上海へと続いて行く!」と実況をし、大東亜通信95年名実況top3に入った。ちなみに、大東亜通信95年名実況は1位から4位までが全てロイヤルクラウンのレースの実況である。

その後、陣営はレース後2時間で大京帝国杯への出走を発表。無敗香港三冠と言う偉業に続き、大東亜三冠までもを狙うその姿勢に、他の競走馬陣営からは批判が巻き起こったものの、馬主が「競馬に絶対は無い、もしかしたらここからすべてのレースをロイヤルクラウンは負けるかもしれないし、もしかしたらここからすべてのレースをロイヤルクラウンは勝利するかもしれない。レースも始まってないのに批判するような者達は絶対ではなく必然的に負けるだろう。」とコメントした。

そしてたった3週間という超短スパンで第33回大京帝国杯にロイヤルクラウンは出走。この短スパンによる不安に加え、初めての3000m長距離レースということから人気は前走の香港チャンピオンズ・チャターカップから下がり、単勝支持率69.9%、倍率1.9倍となったが、これでも他の馬と比べると、圧倒的な一番人気となっていた。香港三冠馬による大東亜三冠に向けた二冠目と言うことで、世間の目は香港チャンピオンズ・チャターカップとほぼ同じ程の注目をしていた。

レースではスタートで多少の出遅れを見せたものの、最後方から様子を伺い、2週目第3コーナーで鞭を入れ一気に追い込みをかけ、上がり3ハロンは57.99秒と圧倒的な速さを見せ、そのまま2着に5馬身差を付け勝利。これにより、ロイヤルクラウンは大東亜三冠に向けた二冠目を獲る事となる。

この勝利は前代未聞の香港無敗三冠馬による大東亜無敗三冠の現実味を帯びさせる事となり、大東亜国内の競馬新聞はこの時期、ロイヤルクラウンのみを報道していたとも言われている。

こうして、大東亜競馬界の視線を全て集中して浴びる中、陣営はレース後3日後に最後の大東亜三冠レースである11月末の冬芽賞、そしてそのトライアルレースである9月末の国鉄蹄鉄賞への出走を発表。今回は今までのレースとは違い、冬芽賞まで3ヶ月もの期間が空いている為、半月程は連戦の疲労を癒すため放牧し、その後香港競馬場にて調教を行うとした。

そうしてロイヤルクラウンは秋初戦として国鉄蹄鉄賞へ出走。単勝支持率88.9%、倍率1.0倍ともはやお馴染みかのように元返しとなった。

レースでは、順調なスタートを切った後、中盤では最後方から二番手の位置で待機、そして最終第3コーナーから一気に大外を回って2着に4馬身差付け勝利。この勝利は大東亜競馬史上初のダブル三冠馬誕生が現実味を帯びたということになり、大東亜競馬界は大いに湧いた。なお大東亜通信はこの時点で「ダブル三冠馬誕生」と報じており、他の競走馬陣営から批判を受けた。

そしてついに迎えた第37回冬芽賞では、上海競馬場周辺は親衛隊による整理が行われる程の盛況を博し、この時の上海競馬場内外問わずの観客数は一説には100万人を超えていたと言われている*1程であった。加えて、当時、大東亜は(恐らくではあるが)3代目総統閣下が統治していたと考えられているが、その総統閣下がお忍びで観戦に来ていたのでは?と言う都市伝説も存在する。そんなこのレースでのロイヤルクラウンの人気は言わずもがなであり、単勝支持率91.1%、倍率1.0倍と言う倍率は恒例行事であるものの、異常な支持率を叩き出すこととなった。

レースでは、順調にスタートを切った後、中盤では最後方から3番目であった。そして追い込みをかけるはずだった第3コーナー から第4コーナーにかけてで前の馬が図らずも壁となってしまい、一時はどうなるかと思われたが、ここで騎手が、大内からの攻めという異例な走りを選択。結果、大きく泥を撒き散らしながらも、第4コーナーを曲がる頃には最後方近くから一気に先頭へと躍り出ていた。そしてカーブが終わり残り300mといったところで、2番人気(10.5倍)であり、1993年総統賞夏冬連覇馬であるトウアファイト?が一気に追い込みをかけ、残り100m時点で1/2馬身差まで迫られたものの、最後の最後でロイヤルクラウンがもう一度伸びを見せ、1馬身差でゴールイン。この時点で、大東亜競馬史上初の無敗ダブル三冠馬が誕生した。この時の実況は「これぞ世界に轟く白亜の大帝!森羅万象に愛されし天馬です!」と実況。これは大東亜通信95年名実況1位を獲得した。

レース後、大東亜通信を始めとする報道各社は新聞・テレビ・ラジオに至るまで全ての大見出しにダブル三冠馬誕生のニュースを掲載した。加えて、このダブル三冠獲得により、馬主及びロイヤルクラウン自身が、大東亜軍・大東亜親衛隊・大東亜国家社会主義党・大東亜政府のそれぞれから表彰・受勲を行われた(なお、この時ロイヤルクラウンにも勲章を付けるため、馬用の首に巻く特別な勲章がわざわざ制作された。)のに加え、大東亜武装親衛隊より、特例措置として、ロイヤルクラウンは准将の階級を与えられることとなった。

その後、陣営は出走する年内レースはこの冬芽賞で終了とし、次走は年明けの旧正月賞からにすることをレースから1週間後に発表した。

種牡馬として


現在


主な産駒

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