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紫禁城または北禁城は旧夜去帝国下の北禁に建設され北禁庁の本庁舎として使用された木造建築郡。1200年代東北地方の統治の拠点として建設され、現在の建物は1500年代に夜去族の統治政策によって中華地方の統治や東北平原出身の官僚の埋葬先などとして建設された複合体である。
現在は、改修の上大東亜国家社会主義国の総統府庁舎として用いられている。
紫禁城

紫禁城本庁
建造1501年
使用用途政治庁舎
面積50ha

歴史

今の紫禁城で最も古い建物である紫禁城本庁と紫禁城夜去廟は1500年に建造された。これまで、大神国は西洋づくりの建物に傾倒してきたが本庁と夜去廟は漢民族と夜去民族の誇りとなるように細かいところまで漢民族風に細かく作られた。
そもそも、北禁は紀元前から大神国の東北平原統治の拠点として用いられてきた土地である。600年に建造され900年近く用いられてきた「ウルハン城」の代替建築として建てられた。1500年代に一度夜去民族が北禁に遷都すると皇帝専用の宮殿として用いられてきた。
都がもう一度神居に戻ったあとは宮殿の規模が大きく縮小され、本庁と廟を除いて多くの建物が老朽化などによって西洋風建築に置き換えられていった。
大逆事件により北禁が漢民族に占拠された後は民主主義勢力の拠点となったが、大東亜国家社会主義労働者党に占拠されてからは紫禁城は同党の拠点として今まで用いられている。

概要

一辺707平方メートルの50haの正方形の敷地内に5の漢民族風建物と30の西洋風建築の建物によって構築されている。周囲は幅50mの水濠が囲い、7mの底幅10mの堀が覆っている。南に大礼門、東に朱雀門、西に金鶏門を有する。北方はウルハン族などの民族の出入り口とされたため門が作られていない*1。紫禁城の名は大神国で最も高貴な色とされた「紫」に関する歌から二文字が取られ紫禁城になったとされる。
北の最奥部には歴代夜去皇帝や夜去官の墓地である「夜去廟」と北禁総長の住居である正和殿が置かれている。夜去廟は三棟の夜去民族風建築を持つ建築様式を取っているが、正和殿は名と裏腹に超洋風な建物である。
この夜去廟には30名の神官と40名の女官が常に住まい、廟に祀られた人を祀っていた。現在でも11名の神官と女官が一切廟の敷地外に出ないようにこの廟を守っている。
この2つの施設がある最奥部を「内宮」と呼び、帝国代のときは厳しく立ち入りが制限され、この敷地に入れるのは東北平原や中華地域の間接的統治者である「中華総督」しか入ることができない区域であり、皇帝であっても簡単に立ち入ることのできない地域であった。
区域のちょうど真ん中には執政機関である「閣部」が置かれ、2府8省1台と中華の治安維持に関わる「御取締方」の庁舎が置かれていた。合計20の巨大な建物が迷路状に配置され、内宮に攻め入ることができないように配置されている。

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