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おおさかし
大阪市

西梅田の高層ビル群
基本情報
大日本帝国
地方近畿地方
行政区画大阪府
総人口000人
市長


















概要

大阪市(おおさかし、英:Osaka City)は、大日本帝国大阪府に位置する都市。また、府庁所在地である。

歴史

大坂冬の陣

木津川口の戦い
豊臣方は、大坂城西側の海に至る要衝である木津川口に砦を築き、五人衆の1人である明石全登を守将に兵800で守備させていた。

1614年11月18日、徳川軍の蜂須賀至鎮はここを攻めるために偵察隊を派遣させ、兵が少ないことを知ると徳川家康に攻略の許可を求めた。家康は浅野長晟および池田忠雄と協力し、兵を損じないことを条件にそれを許可した。
しかし、至鎮は共同作戦では手柄を独占てきないことから、長晟と協力したくなかったため、本多正信にそのことを話した。すると正信は「責任は自分が取るので、好きにしていい」と許可を出した。

蜂須賀軍は翌日、出発を午前6時と決まっていたところを、3時に出発して抜け駆けをし、3000の兵を二つに分けて水陸から砦を攻撃した。
蜂須賀水軍は40艘で木津川を進み、途中で樋口雅兼の率いる5艘の豊臣水軍が攻撃してきたがこれを撃退する。
一方、陸路の方は砦の背後に回り、水軍と協力して挟み撃ちにした。豊臣方は守将の明石全登が会議のために不在でおらず、一族の明石全延が守っていたために守備兵の統制が取れず、蜂須賀軍の挟撃で大混乱に陥り、大した抵抗も出来ず博労淵に撤退し、砦は陥落した。

浅野長晟は蜂須賀勢の抜け駆けを知り、進路上の河川を急いで渡河しようとしたが、その際に多数の溺死者を出し、戦いにも間に合わなかった。
鴫野の戦い


鴫野村は、大坂城東北、大和川の南岸に位置し、湿地帯であることから、堤以外は人馬が行動しづらいという地形だった。そのため、豊臣方は攻撃に備えて、鴫野堤と呼ばれる堤に三重の柵を設け、井上頼次に2,000の兵で守備させていた。
幕府軍からは、鴫野へ上杉景勝勢5,000、後詰として堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝が向かった。
11月23日に長旅を終えて河内に到着した上杉勢5000は、休む暇もなく25日に鴫野に移動した。その南には堀尾忠晴勢800と丹羽長重勢200が陣取り、上杉勢の後方支援を受け持った。そこで徳川家康から鴫野方面に向かう佐竹義宣と同時に攻撃を開始し、豊臣方を撃退せよという命令が下った。

26日早朝、徳川秀忠軍本陣から軍目付として来ていた安藤正次・屋代秀正・伊藤政世は、上杉勢に黙って槍隊を率いて攻撃を開始。豊臣方の守備隊は討って出て鉄砲で反撃したが当たらず、柵の中に逃げ込んだ。そこに上杉勢が到着したため、守備隊は退却し、守備隊の指揮官・井上頼次は討死。上杉勢は鴫野堤を占拠した。

上杉勢第一隊の須田長義は余勢を駆って今福の戦いで佐竹義宣を攻めていた豊臣方の木村重成勢を対岸から射撃をしていたが、後藤基次が木村勢の兵を援護し、反撃をしてきたため浮き足立った。そこに大坂城から七手組頭の大野治長・渡辺糺・竹田永翁・木村宗明ら12,000が来援し反撃に転じ、上杉軍に猛攻撃を仕掛けた。
さらに、豊臣方が勢いに乗って追撃し、穴沢流薙刀術の祖・穴澤盛秀は、持ち前の薙刀術で上杉勢に甚大な被害をもたらした。上杉勢は多数の死者を出し追い込まれた。上杉勢第二隊の安田能元が敵の勢いを止めるため交代したがこれも敗退。しかし、水原親憲が至近距離から500挺の鉄砲で一斉射撃し黒金泰忠も援護射撃に加わり、さらに安田能元の部隊400が突撃すると、豊臣方は勢いを削がれ敗退を開始。上杉勢はこれを逃さず追撃、穴澤盛秀など多数を討ち取り豊臣方を大坂城まで追い返した。

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