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やべむら
矢部村

日向神峡
基本情報
大日本帝国
地方九州地方
行政区画筑後県
総人口1,500人
隣接自治体筑後県
八女郡黒木町?星野村?
肥後県
山鹿市?
豊後県?
津江村
村長



























概要

矢部村(やべむら、英:Yabe Village)は、大日本帝国筑後県に位置する村。八女郡に属している。

地理

筑後県南東部に位置し、東は豊後県、南は肥後県と接する。一級河川矢部川の上流に位置し、村域のほとんどが山地である。

歴史

古代

日本書紀
日本書紀の中にはじめて八女の地名が見える。景行天皇が八女の県に巡行された。そのとき、水沼の県主・猿大海が「山中に女神あり。その名を八女津媛といい、 常に山中におる」と言ったことが記録されている。その女神を祀ったという八女津媛神社が矢部村にあり、八女の地名の起源とされる。

中世

鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、1185年(文治2年)、藤原道隆の子孫といわれる上妻家宗が、上妻郡の地頭職に任命された。家宗は、それ以前筑後守であったから、この地方の開発を行い、その土地を足場にして地頭職を得るようになった。
南北朝時代
南北朝時代になると、矢部の険しい山岳地形は、南朝の拠点があった吉野山地のように戦略的要地となり、南朝方の九州のひとつの重要な拠点となった。

近世

江戸時代
江戸時代になると、日本の統治体制は、幕藩体制に変化した。
矢部村は矢部川を境に、北矢部と矢部に分けられ、右岸の北矢部は久留米藩領(有馬氏)、左岸の矢部は柳川藩領(立花氏)に属するようになった。北矢部は、北川内組、矢部は谷川組に属するようになった。北矢部の庄屋は、鬼塚と中村の中間に 石川庄屋があった。矢部の庄屋は、飯干に末継氏、古川氏があった。また、椎葉の森氏があり、所野にも庄屋があったといわれる。
笹又は、肥後、豊後への交通の要所であり、警察の役目をする横目の月足氏が配 置されて山村の治安を維持していた。

近代

明治時代
明治維新は、旧来の封建制を打破して、近代中央集権国家を建設した史上一大変革 であった。
明治8年の地租改正実施とともに町村の一部が合併された。柳川藩の矢部村は、廃藩置県により久留米藩に属し、明治四年筑後県と名称を改めた。明治22年には、町村合併により、北矢部、矢部の二村が合併し矢部村となり、現在に至っている。
初代村長坂本鉄之進は、村の開発に尽力し、 今日の林業の基礎を築いた。また、 飯干の実業家中川耕一郎は、県道の開発、産業 の振興、植林事業に尽くした。こうして、矢部村の大部分の人々が、林業によって生計を立てていた。

交通

鉄道

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