ちくごけん 筑後県 | |
基本情報 | |
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国 | 大日本帝国 |
地方 | 九州地方 |
面積 | ㎢ |
総人口 | 000人 |
隣接都府県 | 筑前県、肥前県、肥後県、豊後府 |
筑後県庁 | |
知事 | |
県庁所在地 | 久留米市? |
筑後県領域 | |
律令制以前の古代には、筑前国とともに「筑紫国」であり、筑紫国造が支配していた。527年(継体天皇11年)には、筑紫君磐井によるヤマト王権への反乱(磐井の乱)が起こったとされる。しかし、この磐井の乱には不明な点が多い。
その後、律令制が整備されると、筑紫国は分割され、筑後国ができる。
その後、律令制が整備されると、筑紫国は分割され、筑後国ができる。
1359年(正平14年/延文4年)7月、懐良親王、菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆、西牟田讃岐守ら南朝勢約4万は筑後川の北岸に陣を張り、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら約6万と対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が戦った。(筑後川の戦い)
この戦いで足利側の少弐直資は戦死、南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、両軍合わせて5,400余人が討死にするという壮絶な戦いとなった。敗れた足利軍は大宰府に逃れ、九州はこの後、幕府が今川貞世を九州探題として派遣するまでの13年ほど南朝の支配下に入ることとなった。
この戦いで足利側の少弐直資は戦死、南朝側の懐良親王や菊池武光も負傷し、両軍合わせて5,400余人が討死にするという壮絶な戦いとなった。敗れた足利軍は大宰府に逃れ、九州はこの後、幕府が今川貞世を九州探題として派遣するまでの13年ほど南朝の支配下に入ることとなった。
戦国時代、筑後国には一国を統一する勢力は出現せず、近隣の大大名で筑後守護となっていた大友氏の幕下で、筑後十五城と呼ばれた大名分の国人領主たち(蒲池氏、田尻氏、黒木氏が、星野氏、草野氏、問註所氏その他)が割拠した。筑後十五城の筆頭は、柳川城を本拠とした蒲池氏だった。蒲池氏を筆頭とする筑後の国人領主たちは、戦の度に動員されはしたが、大友氏の軍事力に従っているにすぎず、独立性が高かったため、大友氏は、筑後国内に「高一揆衆」という大友氏直参の小豪族を配置し、「大名分」としての筑後十五城の大身を監視した。
大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗し、勢力を弱めると、肥前国を平定していた龍造寺隆信が筑後に進出を開始、たちまち筑後の国人領主たちは龍造寺軍に寝返った。
大友氏が耳川の戦いで島津氏に大敗し、勢力を弱めると、肥前国を平定していた龍造寺隆信が筑後に進出を開始、たちまち筑後の国人領主たちは龍造寺軍に寝返った。
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