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夜去帝国(よるさりていこく)若しくはウルハン朝は、ウルハン族によって創設された帝国。夜去族の夜去朝と月美兎族の月美兎大皇国を征服し、モンゴル高原を統一したリー・カーンによって創設された。


     

国家情報

国名夜去帝国
公用語ウルハン語?
首都1203-1347年:月美兎?
1348-1532:北禁
1502-1676:神居
王朝1206年-1267年:リー王朝
1267年-1502年:チェー王朝
1502年~1532年:南北別朝
1532年-2022年:夏宮朝
2022年-2022年:芝宮朝
2022年-:第一共和制
蒙古/中華世界の歴史
本蒙古中華世界
モンゴル族定住始祖古国時代
月美兎大皇国
始祖ウルハン夜去帝国
夜去民族
始祖夜去ノ狼尊大神国
西周
南方ウルハン
早春戦国春秋戦国

概要

夜去帝国の創始者リー・カンとその兄弟・子息たち、『四方ウルハン』に代表される部将(ウル・ハーン)たち、及びそれらの後継者たちはモンゴル高原から領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ・アナトリア(現在のトルコ)・シリア、南はアフガニスタン・チベット・ミャンマー、東は中国・朝鮮半島、太平洋はニュージーランドまで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。その領土の範囲は人類史上において大英帝国に次ぐ2番目の巨大さだった。夜去帝国は、本蒙古に君臨する皇帝(カアン)を中心に、「アルタン・ウルク(「黄金の一族」の意味)」と呼ばれるリー・カーンの子孫の王族たちと彼らに従属する部将(ノヤン)たちによって、主に戦功等に応じて各地に分与された領民と領国を支配する国(ウル・ハーン)が集まって形成された連合国家の構造をなした。現在の大神国の文明であり中華大陸の文化に直接つながる「夜去文明」を形成し、遊牧民族と農耕民族あるいは様々な宗教や様々な民族の要素が複雑に絡み合った多様な文化を築き上げた。
また、ウルハン族だけでなく月美兎族や夜去族といった他民族を上層部に重宝したことでも知られる。彼らは、後に領土や領民を多く抱えることになる夜去帝国を社会制度などを整えることによって安定化させたほか、経済や農耕で遊牧民族の生活を支えるだけでなく、ウルハン族や他の遊牧民族、あるいは他の都市型民族との戦争の中で手に入れた「攻城戦」や「防御戦」の技術などでウルハン族を支えた。
ウル・ハーンは、当初は主に四方ウルハン(東方、西方、南方、北方)に大別され、その下に「オボグ」などと言われるさらに細かい区分がされていた。オボグは、1000~400人単位の集団で一つのウルハンに100~300程度存在したと言われている。基本的にオボグで遊牧生活や農耕などを送った。ただし、時代が経るに連れて領土も拡大していき、それに合わせてオボグ制度は無くなっていき、夜去族やイスラム教徒から輸入した官僚制度、公務員制度を基本とした統治体制へと変遷していったと言われる。宗教については比較的寛容であった。基本的には自由な信仰を許容し、むしろ他の宗教を差別するものは厳罰が加えられた。これは、月美兎族が崩壊する引き金となった一因に宗教の弾圧とその反乱があったからだと考えられている。

行政制度

夜去帝国ではその領土の広さ所以に行政機関が非常に発達した。皇帝を最上級として「中務省」、「兵部省」、「刑部省」、「星詠省」、「民部省」、「藩部省」の六省とそれを統括する「宰相府」が設置された。中務省は、文書作成や帝室諸事務、皇帝領の管理、外交などを、兵部省が軍への福利厚生や作戦立案、武器生産、情報収集や徴兵など主に軍の後方支援やその動向を把握するために、刑部省が犯罪者の取締や税の徴収などを、民部府が交通路の作成、戸籍の管理や作成、国史の編纂などを、星詠省が諸民族間でのトラブルや宗教上の問題の解決、藩部省は藩部と呼ばれる諸民族のいわゆる「自治領」などの管理や監視、統制などを行っていた。
モンゴル高原は帝室と四方ウルハンによって統治され王族の直轄地といった様相を呈したが、後に一度北禁に中心が移ると完璧に四方ウルハンによって統治された。統治下には、民部府などが出先機関を置いて中央官庁に届かない地方の諸事務を行っていた。
後に帝国に編入されたところのうち、四方ウルハンに含まれなかった土地は「藩部」と称され、一定数の税や人的資源の朝貢、非常事態時の従軍など様々な制約があったが、一種の自治領の様を呈していた。ここには、藩部省の出先機関が置かれたが、住民福祉はそれまでの統治機構によって実施され、藩部省が監視などとともに、中央官庁の承認が必要な事項について連絡を行っていた。
そして、実務を行う、重要な役職がビチクチ(書記官)である。ビチクチは占領地の現地の言語に通じている必要があるので、漢民族、西夏人、契丹人、女真人などの漢人や、ウイグル人、ムスリム(イスラム教徒)などの色目人出身者が数多く参入した。
カアンに仕えるビチクチたちはケシクの一員として主君の側近に仕え、被支配者に対する命令である勅令を記録、翻訳し文書によって発給した。中央から発せられた命令はジャムチと呼ばれる駅伝制によって1日100km以上もの速さで帝国の幹線路を進み、すみやかに帝国細部にまで行き届かせることができた。
統治が血統の重要性ではなく、理想的な皇帝による「君子」による統治を最大の目標とした点に他の帝国との大きな相違点がある。王朝は、異なる2つの民族により統治され、前半のウルハン族による統治ではモンゴル高原や中華大陸、朝鮮半島などを手中に収め、大陸を経由してヨーロッパ(現在のドイツ南部からヴィルヘルムスハーフェンにかけて)までを統治した。また、夏宮朝から始まる夜去族による統治ではユーラシア大陸の西方の領地が独立していく一方で、アフリカ大陸や南アジア、東南アジアやオセアニア、南アメリカに活路が見出され、アフリカ大陸の南半分やインドやパキスタン、東南アジア、太平洋上の諸島、オーストラリア大陸、南大神島、南アメリカ大陸の北部など人類史上類をみない広大な範囲を服属させ、自らの領土として統治した。これらは、大英帝国を圧倒的に凌駕する範囲と人口を統治し、大英帝国を国力、軍事力、生産力、工業力などで凌駕する唯一の「超大国」であった。現在までこれに匹敵する規模の国家は現れていない。
南アメリカや東南アジア、オーストラリア、中華大陸南部などの支配権は大逆事件をきっかけに大きく損なわれ、超大国の地位を手放したが、1960年代後半までインドやアフリカの南半分、コロンビア、パプアニューギニアなどの実効支配を続け、アフリカ・インド方面の領土は南マダガスカルの原発事故による影響で失ったが、それでも2021年頃まで南アフリカ、ナイジェリア、コロンビア、パプアニューギニア、南大神を自らの植民地として支配し、現在もニュージーランドを自らの植民地として支配している。

歴史

創設以前の高原地帯の遊牧民族

そもそも、現在高原地帯と呼ばれている地域においては民族は異なるものの、遊牧民族が継続的に実権を握ってきた。
最初に遊牧民族の姿が確認されるのはテュルク族を中心とする「匈奴帝国」と呼ばれる帝国が紀元4世紀から1世紀頃まで存在していたことは確実視されている。
匈奴帝国は、「テュルク族」によって構築された帝国で紀元4世紀頃から中央アジアの「ウランバートル」などを拠点として中央アジア・満州一帯に勢力を広げていったことがわかっている。
この匈奴帝国は段階的に瓦解を起こし、最終的に「フン」、「テュルク」、「モンゴル」の三遊牧民族と「満」と呼ばれる農耕民族の4派に分解された。この四民族を中心として中央アジアからトルコに至るまでの語句にはある程度の共通性が見られ、特にウランバートルに近づくごとにその傾向が顕著になることから、以上のような考えが持たれるようになった。
4世紀頃から5世紀の間には「フン帝国」もしくは「フン族による高原統治」が行われたことが明らかになっている。
フン族は、6世紀頃に中央ユーラシアの覇者となり、ヨーロッパを侵攻し「民族移動時代」を引き起こす一因ともなった。しかしながら、フン帝国もしだいにその広い領土を支配することが限界に近づき、8世紀から9世紀頃に瓦解したとされている。

創設とリー王朝期

モンゴル高原は9世紀のウイグル国家(回鶻可汗国)の崩壊以来、東の夜去族(神居族)、西の星詠族、南の月美兎族の支配下にあったが、両国は強く対立しあって度々戦争を繰り返していた。そのころ、月美兎族に仕える形でウルハン族は北方の遊牧民族として、存在していた。1世紀に入ると、モンゴル高原を含む中央アジアは、過去1000年の間の中で、最も穏やかで最も湿潤な気候へと変化していた。この結果、馬などの家畜が急増し、遊牧民族で牧畜が生活の主流であったウルハン族の軍事力が大幅に強化されたとの説がある。
11世紀に入り、星詠族が月美兎族によって滅ぼされると、その部下であったウルハン族は月美兎族に「国」として朝貢を求められるようになった。最初こそはいいものの、要求される朝貢品の品目が増大することに不満をつのらせていた。そのころ、ウルハン族は4つの諸部族に分かれており、その中の一つであるフー・リー族の長となったリー・ホア・スヴェー(以下スヴェーと記す)は、4つの諸部族の長と会談を行い共同で月美兎族に対して反乱を起こすことに決めた。1200年に月美兎族に反乱を起こし、2年の戦争の末に勝利し、月美兎族が治めていた領土を手に入れたスヴェーは自身を「リー・カーン」(皇帝リーの意)と名乗り夜去帝国を創設した。
その後、リー・カーンは夜去朝(神居朝)を征服し、モンゴル高原をその支配下に置いた。その中で、4つの部族を中心とした「四方ウルハン」の制度を整備したほか、オボグ制度の創設、月美兎族の領土を元にした穀物や交易などによる経済基盤の整備を行った。また、リー・カーンは自らの子孫に皇帝位につくために必要なことを叩き込み、兄弟の中で最も優秀なものを皇帝位に添えた。その結果、リーの遺志をついで国家基盤の整備と領域の拡大が図られていった。
リー王朝3代目のリー・ホール・カーンは、東北平原へのアクセス路を確保するために満州族の最大の拠点であったビューデン朝に戦争をしかける。ビューデンの戦いには王直々に参戦し、攻城戦やビューデンの騎馬隊と衝突したが、最終的にビューデンを確保して東北平原へのアクセス路を確保することに成功した。しかし、リー王朝三代目のリー・ホール・カーンはこのとき負った創傷が原因で死亡し、リー王朝三代の治世は終了した。

チェー・ルイシェント・カーンによる領土の拡大とチェー王朝の始まり

リー・ホール・カーンの死後、本国では次の皇帝を選ぶため四方ウルハンが集まり結果として南方ウルハンのチェー・ルーイシェント・ビルハをカーンにそえた。チェー・ルーイシェント・カーンは、即位後南方への拡大を続けて、東北平原と華北平原を自国のものとした。
1301年からは中央アジアのオアシス農業地帯に対する大規模な遠征軍を発し、シルダリア川流域からイランまでを支配する大国ホラズム・シャー朝に侵攻した。帝国軍はサマルカンド、ブハラ、ウルゲンチ、ニーシャープール、ヘラートなど中央アジアの名だたる大都市に甚大な被害を与え、ホラズム・シャー朝は壊滅した。西方ウルスのハーンであったクレーリー・ハーンの本隊はガズニーを領有していたホラズム・シャー朝の王子ジャラールッディーンを討伐するためにアフガニスタン方面へ進軍し、ホラーサーンのバルフやバーミヤーンなどの大都市をことごとく殲滅しながら南下して行った。しかし、バーミヤーンではクレーリー・ハーンの長男モエトゥゲンが戦死し、アフガニスタン中南部のパルワーンでは駐留していたビルハの養子シギ・クトクの軍がジャラールッディーンの軍に壊滅させられるなど手痛い反撃を受けた(パルワーンの戦い)。クレーリー・ハーンはトルイを殿軍としてホラーサーンに駐留させて自らの本軍とジョチ、チャガタイ、オゴデイ率いる諸軍を引き連れ、マー・ワラー・アンナフルから南下してジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い落として捕縛は出来なかったものの撃退することには成功した(インダス河畔の戦い)。1317年にチェー・ルーイシェント・カーンは、南丘に対する侵攻を華北南部の有力者であった刘伯温率いる軍によってさせ、阮朝も整復させようとしたが、猛抵抗に会い大損害を負って断念し、翌年にボルネオ島に侵攻し20年あまりの歳月をかけて、ニュージーランドまでを平定することに成功した。
この頃から、人口の増大などで比較的余裕が出たことや戦争が長続きすると後方生活が苦しくなることなどから専業軍人と民間人を分け始めた。専業軍人は強い規律によって縛られたほか、歩兵、攻城戦部隊、騎馬兵などの様々な専門分野を持った一つの塊に改変されていった。民間人は、軍人が占領した土地で開拓などを行う他、穀物生産や都市生活などで社会分業を行った。また、国民の急速な増加でオボグなどの統治がうまく行かなかったこともあり、規制による規律、明確な権限、明確な階統構造、公・私の分離、文書主義、資格任用制(メリット・システム)、専業制といった現代の官僚制度につながる官僚制度を確立させた。
チェー・ルイシェント・カーンは、1318年に当時としては高齢の80歳近くでこの世を去ったとされており、60年以上のその治世に幕を閉じた。

チェー・ロイハン・カーンの治世

ビルハの死後、生前の勅令によって帝国の全軍のうち8割を占める軍事力が東方ウルハン出身で軍才に優れたロイハンの外戚に当たるデン・シオン・ピングと他の都市民族で構成されるいわゆる「司令部」に相続された。
ただ、ロイハンは実務の才能に長けていたものの軍才に長けておらず、そこで外戚であり名称として名高いデン・シオン・ピングに軍を任せたとの説もあり、これについてははっきりとしていないが、間違いなく言えるのは、非常に多くの戦力が「外戚」に委譲されたことである。また、ここでの特記事項としてはここから軍の指揮系統は王権と切り離され王が直接前線へ向かわなくなった。これは、ただ単に指揮系統を分離したことだけでなく、当時夜去軍が保有していた高度な通信技術(ホーミー等の会話を通して指示を伝える技術)などがこれを可能にしたと言われている。
治世の中では、さらに都市民族の登用が増加し、先代によって築かれた官僚制を固めるとともに、灌漑施設の整備などによる農耕生産の奨励などによって帝国の基盤を大きく作り上げていった。また、主要都市間を結ぶ連絡網を整備させたほか、教育を受けれる範囲を高位貴族から下位貴族まで拡大したほか、一般の人が読み書きを覚えれるように都市部を中心として「学所」を開設したほか、「徴兵官」を創設し徴兵から初期教育を一貫して行わせるようにした。
そのようななか、デン・シオン・ピングは、1339年にロイハン・カーンに高麗の侵攻を提案して承認された。実は、この侵攻は朝鮮半島を確保して日本に戦略的優位性を確保することが目的だったと後に判明している。
翌々年の1341年末に高麗を滅ぼす。デン・シオン・ピングは、日本に三回から五回ほど使者を日本へ送った。この親書は、最初の二回が皇帝から、次の二回がデン・シオン・ピングが率いる「兵部省」、最後の一回が中央官庁の統括を図る「宰相府」からの親書であった。いずれも日本へ服属を求める手紙であったと伝えられている。結果として、日本側に使者を殺されてしまう形となり日本側が使わせた使者の手紙もカーンを激怒させるには足りていた。しかし、当時のカーンは非常に日本侵攻に躊躇したがそれでも他の重臣に説得され1343年10月2日に日本の侵攻を許可したという。
侵攻は2回行われたが、日本側に撃退され三回目の侵攻が1346年に行われる予定だったが、カーンが急逝し、次のカーンが日本侵攻の停止を命じたため三回目の侵攻が行われることはなく日本への侵攻は行われなかった。

チェー・ホイシェント・カーンの治世

ロイハンの死後ロイハンの長男であるホイシェントがカーンの位を引き受けた。引き受けると同時にホイシェントは手狭になっていた月美兎からアジア貿易の拠点となっていた北禁へと遷都することを決定した。このときに「本宮」を今の大京に設立してここを政治の拠点とした。北禁は碁板状に整備された計画都市であり、その四方を壁によって囲まれていたという。本宮の周りには貴族の住まいや官公庁などが置かれた。
ホイシェントは戦争を好まず、好戦的で日本への三度目の侵攻を強く主張してきたデン・シオン・ピングを排除してその地位に別の人物をそえた。ホイシェントはすでに広大になっていた帝国の領土が切り崩されないようにすることを重視し、軍の体系はそれまでの侵攻を重視したものではなく防衛戦や治安維持、反乱制圧のためにシフトした軍に変革させた。このとき、デン派の人間と皇帝派の対立によりデン派の政治家が大量に粛清されるという事件が発生した(デン族粛清)。これにより中央の軍の中での皇帝派とデン族派が大きく対立しまたそこに四方ウルハンの対立があいまって一時期は帝国は崩壊の危機に達した。
結局、積極的な防衛主体の軍への転換は控えることと日本ではなく台湾や太平洋上の島々をその支配下に置くために新たに軍を組織することで合意した。ちなみに、このときの軍の整備に当時の一年あたりの帝国予算の実に1/14が使用されており今後の帝国の衰退への一因となる。
デン派の人間はここで得た海軍力を用いて積極的に太平洋上の島々を占領していった。この侵攻の主体となったのは海の民と呼ばれる海賊のようなもので熱帯地帯での通信方法も彼らによって整えられたとされている。
結局、ニュージーランドまでの島嶼部をその領土として歴史上世界で最も大きい大国家を形成することになった。ホイシェントは1400年にこの世を去って57年余りの治世に幕を閉じたとされる。

チェー・ルイセへ・カーンの治世

ホイシェントの長男であるルイセへがカーンの地位を継ぐこととなった。このカーンは先代の時代にカーンに立ち向かった軍の構造を抜本から改革させカーンを絶対中心とした防衛及び分裂防止や反乱鎮圧を主とした軍へ移行した。また、国内貿易や朝貢国や欧州との貿易政策を突き詰め先代の時代に整えられた海軍を用いて積極的な海洋進出を行った。これにより、経済力が大幅に強化され安定した経済体制を構築した。
また、この資金を元手にして香港やマカオ、ジャカルタ、南大神、南京、平壌、ソウルなどの地方都市を整えていってここをその治世の中心にしようとした。このためこれらの市内には未だにこの時代の建造物が多数残っている。ただ、このころになるとヨーロッパ・アナトリアなどや西アジアの区域はイスラム世界などとの対立などによって喪失した。これはヨーロッパ方向への重要な交易路を喪失することに繋がり帝国の弱体化に繋がっていく。

チェー・ホール・カーンの治世と混乱

1434年頃のルイセへの死後、ルイセへの長男であるホールがカーンの地位につく。ホールは就任時23歳であり摂政をつけざるを得なくなった。このため母親を摂政としてカーンの地位についた。しかし、母親はルイセへの治世を受け継ごうとし海洋進出を行おうとしたが、ホールは予てから海洋進出には反対であり宮廷内で対立が深まっていた。
このころ、海軍は陸軍と同じほどに強大になっており摂政派の海軍とカーン派の陸軍での対立となった。両者は領内などで衝突を繰り返すほか、海軍は陸軍兵力を輸送しなくなり独自の陸戦力を持ち始めた。最終的にこの戦力は現在の大京付近まで兵を進めた。
これは、大神国陸軍はヨーロッパアナトリアへ進出し再びこれらの地域を帝国の治世に戻そうとした一方、南アジアやアフリカ北部の住民、西アジアの住民や仏教徒などを奴隷としてヨーロッパ世界や米大陸に輸出し、南アジアで栽培されるアヘンや茶、アブラヤシ、香辛料などを輸出しようと模索した。
結局、イスラム圏を通る陸路がイスラム勢力との対立によって用いれなくなったので海洋進出を余儀なくされた。ただし、これらの貿易で国庫は更に広がっていった。しかし、このころから奴隷や農奴などという身分が生まれ民族間での格差が生じており、更に上記の混乱によって中央政府の支配力は弱まり、東アジア地域以外の領地ではしばしば戦乱が発生していた。ちなみに、ホールは1467年に死去している。

チェー・フウリ・カーンの治世と国内の再団結

ホールの死後、フウリが新たなカーンとなった。フウリは、地方で台頭していた諸侯の力を抑えるために「皇帝令」を発布した。これは、各地を治める諸侯は皇帝が裁可すること。諸侯は、皇帝令に逆らってはならず、逆らったならば死刑の対象となることなどが記されたほか、混乱していた陸軍や海軍の規律を整えるために組織を整理して統率が非常に強まるようにした。
また、外交面ではイスラム世界と和平を結びヨーロッパ方面への交易路やアフリカ方面への連絡路として再びイスラム世界の領域を用いれることとなった。これにより、奴隷貿易などは加速していった。ただ、このような治世も長くは続かず、1499年に急死した。また、本人は子を設けれず(本人に生殖器異常があったとされている)、養子を設けようにも当時の国内事情により設けられなかったため後述の混乱につながることとなる。

フウリの死と南北別朝

フウリは死亡したが、彼には世継ぎがおらず兄弟もいなかったためとりあえず、フウリの母による「母君統治」がなされた。フウリの母は、オセアニアの植民地拡大を推し進めようとした。一方で、フウリの妹を世継ぎとして迎えていた夏宮家は「こちらにはフウリの妹が結婚している男がおりカーンには夏宮家が最適」と主張して、「第二次夜去朝」の成立を宣言した。いっぱんにはこの神居に首都を置いたリー王朝を「北朝」、北禁の紫禁城に拠点をおいた夜去王朝を「南朝」と呼ぶ。
これは、際限なく行われていた植民地化に一旦、歯止めをかけることになるとともに高原地域の神居(つまりは高原地帯の遊牧民族をも支配下における唯一の皇帝の座)をかけた二者の政治的抗争が始まる。ただ、国内統治では(事務を夜去民族を中心と農耕民族が担っていたこともあって)程なく夜去朝が権力を握る(権力掌握)を行った。
しかしながら、それでもリー王朝を中心とする遊牧民族はやはり南朝にとっても無視できない勢力だったことは間違いなく、南朝は世界中の植民地において高原地帯を神聖化していることによって高原地帯に侵攻する(つまり武力で破壊する)ことは不可能に近く、一方の北朝も遊牧民族だけでは南朝を攻められないため30年ほど状況が硬直した。この30年の間、夜去民族は世界中の植民地をより一層自分のみかたにつける工作などを行うして、自らの味方を増やすとともに夜去の支配の基盤を着々と整えていった(言語の統一や貨幣・市場の統一、国際的な分業制度など)。この影響によって1900年代前半まで帝国は各植民地を自らに依存させ強固な植民地支配を行えたとされている(後述)。
南北別朝の話を続けると、この両者の対立の鍵は「満州地帯」であった。満州地帯は当時も大穀倉地帯であり主に高原地帯から派遣された実権者がここを制圧することによって夜去族のような農耕民族は抵抗ができなくなるという仕組みであった。また、満州地域の民族は夜去族とは異なりテュルク族の直系である「満族」であり、一般国民の言葉もテュルク諸語に属していたことや満族貴族の帰属意識は夜去族の南朝でなく同じテュルク族系の北朝であったため南朝が満州を抑えることは非常に困難だった。
しかしながら、1531年に満族の筆頭貴族(つまり満州の支配者)が死亡すると、後継者に指名された人物を直ちに暗殺し混乱をついて軍事力で執行会を脅し、その座を南朝派の貴族である大槻家に譲らせた。これにより、満州は南朝の手中に収まり南朝の勝利が確実となった。
1532年に北朝のリー家の「母君」が北禁を訪れ、南朝の皇帝と面会し高原地帯の実権を譲ると宣言した。このあと「母君」とリー一族の女子供には「法衣」(つまり出家して政治に関わるなと言う命令)、男には「刀」(つまり首を切って死ね)が送られ、リー一族は傍系を含めて完全に政治の表舞台から根絶された。ちなみに、このときリー一族と他のテュルク族有力者の監視のために置かれた組織「某術局」から続く皇帝直轄の情報・諜報部隊は現在の大神国の諜報機関の礎になっているとされる。

夏宮朝による政治(概説)

ここからは、リー王朝のように皇帝ごとにその治世について詳説するのではなく、ここで夏宮朝の治世を通じた概説を行ったあとで、最初期、拡大期、産業革命期、中間期、大逆事件、帝国の崩壊、近現代の5つの時代に分けて詳説することとする。
夏宮朝は拡大期までは憲法の整備や議会の整備など、これまでの皇帝のいわゆる「カリスマ性」に左右されてきた政治ではなく、権力を分散させることで安定した政治体制の確立とそれを礎にした植民地のさらなる拡大を目指した。特にこの時期から中華大陸地域に加えて中央アジア一帯、オセアニア、アフリカの1/2や南アメリカ北部一帯などを広い範囲で支配する世界最大の帝国を設立し、また匈奴侵攻などをきっかけに関係が深かったザクセン民族などと結託して世界的な影響力を手に入れた。
産業革命をイギリスからなどの輸入によって比較的国外に先駆けた後は、戦術の植民地の広い市場などを元手にイギリスに並ぶ一大生産拠点としてアジア・太平洋地域を席巻した。また、この産業革命は騎馬兵を中心としていた帝国軍を早急に近代化させたり、鉄道整備などを推し進め、ユーラシア大陸の距離を「小さく」した。中間期の第一次世界大戦では戦争を通して中立だったものの、武器などの製造などによって大きな利益を得るなどした。第二次世界大戦でアジアの連合軍の主戦力として日本と対戦した後に続けて発生した大逆事件で、多くの植民地を喪失し世界の超々大国としての位置はアメリカとソ連に並んだ。大逆事件後は民主化プロセスを実行するためにヨーロッパとアメリカによる監督を受けるとともに朝鮮戦争や対ソ戦線のサプライヤとしてだけでなく国策としても先進産業を大きく躍進させ、工業大国としての地位を獲得した。
2022年海上自衛部クーデターで夏宮家が全員憲兵隊によって殺害され、夏宮朝は断絶を迎えることとなる。

最初期の夏宮朝

夏宮朝は、まず最初に国の仕組みとして権力の「分散」を行うためにまず最初に皇帝の下に置かれていた執政機関を制度化しそれの運用に関する法整備を行った。このときに設立された太政官、神祇官、兵部、大蔵、民部、刑部、治部、中務、宮内、式部、弾正台、右/左兵衛、大学寮、御馬寮、星詠寮は形を変えながら現在も中心的な執政機関としての役割を果たしている。
また、地方政治の中心的な役割を担う場所として「〇〇府」(例:北島府/南大神植民地)を設置しここには各貴族に土地を安堵させることによって彼らに御守護としての役割を与えて、彼らに軍事、奴隷そのほか様々な権力を与えて、そこにおける政治の状況について半年に一度皇帝に報告するシステムを整え植民地支配をも制度化させることによって崩壊しかけていた植民地共同体としての帝国を成立する。

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