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ウルハン族(あるいはウルハーン族)は、モンゴル族(族系)に端を発する民族である。
7世紀から歴史上に登場し、13世紀 - 14世紀にユーラシア大陸の大部分を版図とした夜去帝国を築いた民族。夜去語を話す。大きく南ウルハンと北ウルハンに分けられる。現在は大神国と内モンゴル自治国などにその多くが住んでいる。
ウルハン族
現状活動中
活動地世界中
言語夜去語
宗教強いアメニズム
族長ウル・カーン
生活形態遊牧

概要

ウルハン族は、モンゴル族(族系)に由来を持つ遊牧民族である。比較的早い時期に都市定着をしはじめた夜去族と異なって都市定着をし始めたのは20世紀後半代からである。
ウルハン族には、主に南方を移動する南ウルハーンと北方を移動する北ウルハーンに大分される。それぞれのウルハーン族は「ハーン(カーン)」と呼ばれる首長を置きさらにその下には居住地域によって細かい部族分けがされている。現在では1.8万人と非常に少ないが、65以上の部族分けがされている。
歴史上、ウルハーン族は現在の夜去大神国につながる夜去帝国と呼ばれる超大帝国を築き上げた。しかし、時代が経るに連れてウルハン族は徐々に夜去族と婚姻する形で都市定着して大幅に人数が減少した。最盛期には四方ウルハーンがいたにも関わらず、現在では北ウルハーンと南ウルハーンしか現存していない。

歴史

リー王朝期とそれ以前

古くは、6世紀後半代の歴史書に室韋という集団の一部族として「蒙兀室韋」、「蒙瓦部」という漢字名で記された。彼らは当時大興安嶺山脈(注釈:桜狐山脈の中国名)の北、アルグン川渓谷に住んでおり、星読帝に従属していた。11世紀になると、草原の支配者は月美兎族の月美兎大皇国に代わり、かつては一部族にすぎなかった「ウルハン族」も「国」という一つの国として月美兎大皇国に朝貢するようになった。13世紀頃になると、度々当時の月美兎大皇国と対立を繰り返すようになった。13世紀後半代に月美兎大皇国を滅亡させ、当時の北ウルハン首長であったリー・シュンが帝王として即位した。
このときリー・カーンと名乗るようになった。リー・カーンは国号を「夜去帝国」と定め、神居に拠点をおいた。後に日本の民俗学者が学会でこのことを誤用してもともと神居周辺に定住していた農耕民族を「夜去族」と発表したことが現在の名称に繋がっている。リー王朝は、南方拡大を掲げ、ウルハン族と満州族は度々衝突した。その代表格がビューデンの戦いである。リー王朝は桜狐山脈の更に南の防衛拠点であったビューデンに攻勢を仕掛けて、多大な犠牲とともにこれを突破し、北京などへのアクセスを確立したが、リー王朝の最後の王であるリー・ホール・カーンの死によってリー王朝は志半ばで倒れることとなった。

チェー王朝と夜去帝国の最盛期

リー王朝の滅亡後、南ウルハンと夜去族の混血であるチェー=ルーイシェント=ビルハがカーンを名乗り、チェー王朝に移った。チェー王朝では、カーンという名称が天皇(発音はてんおう)とするようになった。チェー王朝では当時対立していた夜去族と融和が図られ、彼らが手に入れた攻城術や築城術などを用いて早々に西方を確保。勢いそのままに南進した。
また、チェー王朝は国内諸部族の融和を図り、民族連合体としての「夜去帝国」を建国した。通常この政権を夜去帝国と呼ぶ。この帝国は中央アジア地域の諸部族を統一したのち、周辺の国々も併合していき、東はニュージーランド、西はポーランド・ハンガリー、南はチベット・イランにいたるまでの版図を実現した。しかし、14世紀初頭になると、その巨大な帝国は東アジアの夜去帝国、南ロシアのジョチ・ウルス、西アジアのルーウルハン、中央アジアの北方ウルハーンの4国に分かれ、一種の世界連邦を構成した。そのうち中央政権である元朝が1368年に漢民族の明朝に打倒されると、それぞれの構成国家はそれぞれの歴史を歩むこととなる。

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