相模鉄道株式会社 Sagami Railway Co., Ltd. | |
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種類 | 株式会社 |
略称 | 相鉄 |
本社所在地 | 相模県横浜市 |
創業 | 1918年(大正7年) (相模鉄道) |
業種 | 陸運業 |
代表者 | (代表取締役社長) |
資本金 | 2億円 |
売上高 | 435億289万円 |
経常利益 | 76億2500万円 |
純利益 | 50億2300万円 |
純資産 | 530億5000万円 |
総資産 | 8500億7500万円 |
従業員数 | 1,800人 |
決算期 | 3月31日 |
主要株主 | 相鉄HD 100% |
- 相鉄・NR直通線
本直通運転の開始に伴い、初めて東京都区内に相鉄の車両が乗り入れるようになった。
相模川で採取した砂利の輸送、販売を目的として、1916年(大正5年)に茅ケ崎駅 - 橋本駅の敷設免許を取得。1918年(大正7年)には「相模鉄道株式会社」が設立された。
鉄道開通以前は、狭い専用線を茅ヶ崎から敷設して、トロッコに積んで、馬力で茅ヶ崎停車場に運搬し、ここから東海道線の貨車に積み換えて目的地まで運ぶというものであった。当時、寒川採取所の沿岸一帯は、歩留り8割の砂利を含有し品質も良く、最良の採取所であり、採取場も次第に拡張されていった。
1921年(大正10年)に茅ケ崎駅 - 寒川駅間および寒川から川寒川間(貨物線、後に廃止)で開業した。
鉄道の開通によって、砂利の搬出方法も馬力輸送から貨車輸送に移行し、 多量の砂利を出荷するようになったため、採取所から集積所に至る小運搬はトロッコ線だけでは輸送力が不足するため、軌条の増設、波止場の設置などの設備改良が積極的に行われた。
更に、寒川〜厚木間、さらには橋本までの延長計画が検討され、将来に対する延伸計画も着々と進められた。
しかし、1923年(大正12年)に関東地方を襲った関東大震災は鉄道路線をはじめ、様々な設備に大きな被害をもたらし、復旧工事は手間どり、鉄道線は1ヵ月程度不通となった。一方、震災後の復興事業の活発化に伴って、砂利の需要は急激に増加した。そこで、従来の手掘り式による採取方法を改め、砂利採取船による採取方法を導入することとなった。砂利業は復興事業の進展に伴い、次第に活気を呈しはじめてきた。
苦難の末に開業を果たした相模鉄道では、未開通区間をがあったほか赤字続きであったため、当初計画は大きく後退したため、既設の茅ヶ崎 - 寒川 - 四之宮間の鉄道に対する政府補助金の申請を行い、1924年(大正13年)に許可された。これにより、経営基盤は多少改善され、その結果、1926年(大正15年)には倉見駅まで、さらに厚木駅まで延伸し、相中鉄道と接続した。
厚木までの開通などによって砂利輸送量は急増し、従来の経営不振から脱して、株主配当を初めて実施した。以後、引き続いて業績は好調で、創業以来初の黄金時代ともいうべき時期を迎えた。
厚木までの開通により、倉庫業、遊園地、不動産業、自動車業など、企業活動の多角化を進めていこうとした。
1931年(昭和6年)には、厚木- 橋本駅までの工事が完了したが、当時の不況による影響で工事代金の支払いができず、日本興業銀行からの借入金でこれを賄って、ようやく厚木〜橋本間の営業を開始した。
大正初期までに、相模県下では鉄道網が急速に建設されていったが、県中央部の交通機関は未発達で、馬車を利用する以外になかった。また、農産物輸送などを担う目的から、交通機関の必要性が痛感され、この地域での鉄道の敷設に対する要望は次第に高まっていった。
1915年(大正4年)、相模県中央部の有志、平沼淑蔵をはじめ23名によって、「相中軌道敷設特許請願書」が鉄道院に提出された。
敷設特許請願に対して、翌年に特許状が下付され、軌道を敷設し、一般運輸の業を営むことが許可された。
そして、1917年(大正6年)に相中軌道株式会社が発足した。しかし翌年には、商号を相中鉄道株式会社に変更し、軌道から軽便鉄道に計画を変更した。
着工はなかなか始まらず、1923年(大正12年)にようやく工事施行認可が下付され、起工式も行われようとしていたが、同年の関東大震災の影響により一年延期され、ようやく着工した。
ついに、1926年(大正15年)、二俣川 - 厚木間の営業が開始された。 会社設立以来、社会情勢の変化、天災地変との遭遇、資金難にもかかわらず、地域住民待望の鉄道が完成した。創立の年から数えると約8年の歳月が流れていた。
開業後は、厚木停車場近くの相模川の多量の良質な砂利の採取、販売に乗り出した。当時は震災直後ということもあり、砂利需要は高まっており、砂利業は、積極的に展開された。しかし、貨車による砂利輸送は二俣川止まりであって、砂利の積み換えに手間どるため、販路もおのずから沿線各地に限定されるようになり、業績はあまり良好とはいえなかった。
その後、同年12月には星川駅(現・上星川駅)まで、1927年(昭和2年)には北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで、1929年(昭和4年)には西横浜駅までと細切れに開業していった。
この間、1928年(昭和3年)に豪雨に見舞われて、相模川が氾濫し、採取船や砂利線の殆どが流出したため、数ヵ月間にわたり砂利採取不能の状態が続いた。その結果、翌年は、砂利業開始以来の鉱区、維持費を一気に償却するという措置をとらざるを得なくなり、資金難は依然として続いていた。
そこで、運輸収入の増加を図るための策として、運転費の削減、運転度数の増加が検討された結果、従来の蒸気機関車と合わせてガソリン自動客車を導入することとなり、 旅客列車運転の増発を試みたり、事業改善に努めた。
豪雨、不況と続いて苦しい経営状況であったが、1931年(昭和6年)に西横浜 - 平沼橋間の省線の側線を借り入れて営業を開始し、1933年(昭和8年)になってやっと横浜駅に乗り入れた。横浜駅まで全通した結果、旅客は著しく増加した。
1915年(大正4年)、相模県中央部の有志、平沼淑蔵をはじめ23名によって、「相中軌道敷設特許請願書」が鉄道院に提出された。
敷設特許請願に対して、翌年に特許状が下付され、軌道を敷設し、一般運輸の業を営むことが許可された。
そして、1917年(大正6年)に相中軌道株式会社が発足した。しかし翌年には、商号を相中鉄道株式会社に変更し、軌道から軽便鉄道に計画を変更した。
着工はなかなか始まらず、1923年(大正12年)にようやく工事施行認可が下付され、起工式も行われようとしていたが、同年の関東大震災の影響により一年延期され、ようやく着工した。
ついに、1926年(大正15年)、二俣川 - 厚木間の営業が開始された。 会社設立以来、社会情勢の変化、天災地変との遭遇、資金難にもかかわらず、地域住民待望の鉄道が完成した。創立の年から数えると約8年の歳月が流れていた。
開業後は、厚木停車場近くの相模川の多量の良質な砂利の採取、販売に乗り出した。当時は震災直後ということもあり、砂利需要は高まっており、砂利業は、積極的に展開された。しかし、貨車による砂利輸送は二俣川止まりであって、砂利の積み換えに手間どるため、販路もおのずから沿線各地に限定されるようになり、業績はあまり良好とはいえなかった。
その後、同年12月には星川駅(現・上星川駅)まで、1927年(昭和2年)には北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで、1929年(昭和4年)には西横浜駅までと細切れに開業していった。
この間、1928年(昭和3年)に豪雨に見舞われて、相模川が氾濫し、採取船や砂利線の殆どが流出したため、数ヵ月間にわたり砂利採取不能の状態が続いた。その結果、翌年は、砂利業開始以来の鉱区、維持費を一気に償却するという措置をとらざるを得なくなり、資金難は依然として続いていた。
そこで、運輸収入の増加を図るための策として、運転費の削減、運転度数の増加が検討された結果、従来の蒸気機関車と合わせてガソリン自動客車を導入することとなり、 旅客列車運転の増発を試みたり、事業改善に努めた。
豪雨、不況と続いて苦しい経営状況であったが、1931年(昭和6年)に西横浜 - 平沼橋間の省線の側線を借り入れて営業を開始し、1933年(昭和8年)になってやっと横浜駅に乗り入れた。横浜駅まで全通した結果、旅客は著しく増加した。
相模鉄道と相中鉄道は臨時株主総会を開き、その後合併契約書が交わされた。合併の理由は、相模鉄道線と相中鉄道線は厚木駅で連絡し、旅客、貨物の連帯輸送を行っているが、その経営を異にするため、両社を合併することによって、両社の施設を総合的かつ機能的に活用し、名実ともに一元的経営を行い、戦時下における輸送の充実を図る、というものであった。
こうして、1943年(昭和18年)、相模鉄道は相中鉄道を吸収合併し、創業以来25年にわたる相中鉄道の歴史はここに幕を閉じた。
こうして、1943年(昭和18年)、相模鉄道は相中鉄道を吸収合併し、創業以来25年にわたる相中鉄道の歴史はここに幕を閉じた。
合併にともない、神中線の複線化工事が進められ、1944年(昭和19年)に完了した。また、電化工事も進み、1943年(昭和18年)には東京急行電鉄から600Vの電力を受電して、横浜 - 二俣川間を電化し、また、小田急電鉄から1,500Vの電力の送電協力を得て、同年には相模大塚 - 海老名間が、1944年(昭和19年)には二俣川 - 相模大塚間がそれぞれ電化され、横浜〜海老名間全線の電化運転が行われることになった。
しかし、この時600Vと1,500Vの2種類の送電を受けた相中線は2つの異なった電圧を持つこととなってしまった。
しかし、この時600Vと1,500Vの2種類の送電を受けた相中線は2つの異なった電圧を持つこととなってしまった。
1939年(昭和14年)に相模鉄道は、東京横浜電鉄(現在の東急)の傘下となっていたが、東急社内の内紛もあり、相模鉄道は独立した。
その後、東急が再買収のため、あの手この手を尽くしたが、横浜大洋銀行が後ろ盾となり、防戦資金を融資した結果買収は免れた。
その後、東急が再買収のため、あの手この手を尽くしたが、横浜大洋銀行が後ろ盾となり、防戦資金を融資した結果買収は免れた。
経営が安定化した昭和30年代から、自社車両の導入が進んでいった。当時の新車両は徹底した軽量化を図り、高加減速を得るために編成のすべてを電動車とするとともに、電気制動を備えていた。相模鉄道もまたこの趨勢に遅れないために、従来の効率の悪い中古車両の増備から脱却し、運用効率の高い新造車の投入を急ぎ、他社にさきがけて流線型ボディマウント式の軽量金属製車両5000系4両(2編成、モハ5001〜 5004)を新造し、輸送力の増強に対処した。
急激な旅客増加により、朝夕のラッシュ時における混雑と、これにともなう列車の遅延はいっそう著しくなっていった。 このため、長期的輸送対策のもとに輸送力増強計画が練られたが、輸送力の確保を図るためには、まず新造車両の増備を進めることが先決であるとし、高性能の5000系車両が増備され、1960年(昭和35年)までには20両を保有し、輸送力の増強に努めた。
そこで、1961年(昭和36年)、画期的な車両として6000系2編成、8両(モハ6001〜6004、クハ6501〜6504)が登場した。
この6000系4両編成運転に備え、各駅乗降場の拡張とホームの有効長を延伸する工事を全線にわたって実施した。さらに増加する旅客に対処するため、1963年(昭和38年)5両編成運転が可能となった。
そこで、1961年(昭和36年)、画期的な車両として6000系2編成、8両(モハ6001〜6004、クハ6501〜6504)が登場した。
この6000系4両編成運転に備え、各駅乗降場の拡張とホームの有効長を延伸する工事を全線にわたって実施した。さらに増加する旅客に対処するため、1963年(昭和38年)5両編成運転が可能となった。
輸送力増強にともなう保安対策としては、信号機の改良や増設、電線の増強、踏切保安設備の強化などを積極的に進めた。 また、信号保安高圧配電設備は既設の西横浜、二俣川両変電所の3,300V配電設備によってまかなわれ、二俣川以西は二俣川変電所から配電していたが、大塚本町 〜海老名間の電車基地建設にともなう負荷の増大に対応するため、1966年(昭和41年)に大和変電所に300kVA単相変圧器2台を新設し、その電源確保に備えた。
1967年(昭和42年)に二俣川駅から平塚市方面への新線の免許を申請し、1970年代に入りいずみ野線として建設することになる。まず1976年(昭和51年)に二俣川駅 - いずみ野駅間を開通し、その後しばらくの間宅地開発に専念して沿線の住民を増加させた後、1990年(平成2年)に湘南台まで延伸、1995年(平成7年)には平塚まで延伸し、平塚線と改称し、全通した。
1975年(昭和50年)に登場した7000系車両も、登場以来、旅客サービス拡充や安全運行のために種々の改良が加えられてきた。1983年(昭和58年)には、7000系車両では 初めてのMC車とT車を導入した。これは10両編成運転の増加に備えたものであるほか、昼間時の6両ないし8両への編成替え作業や車両検査、洗車などにおける増結・解放作業の効率化を狙ったものであった。
新7000系車両は、高性能かつ経済性に優れた通勤列車である7000系車両を基本に、前面デザインとカラーリングを一新したアルミ車両で、前面は上半分を黒色とし、下部を斜めにカットした。また前面と側面に相鉄の頭文字「S」がデザインされた赤のラインを配した。
また、サービス面では「車内案内表示器」を初めて設置したほか、一部の車両には、ヒートポンプ式の冷房装置を備えた。
新7000系車両は、高性能かつ経済性に優れた通勤列車である7000系車両を基本に、前面デザインとカラーリングを一新したアルミ車両で、前面は上半分を黒色とし、下部を斜めにカットした。また前面と側面に相鉄の頭文字「S」がデザインされた赤のラインを配した。
また、サービス面では「車内案内表示器」を初めて設置したほか、一部の車両には、ヒートポンプ式の冷房装置を備えた。
更なる輸送需要の増大にともない列車の運行は高密度化してきたが、従来の緊急事態が発生した場合の運行管理は、指令電話や誘導無線によりその状況が運転司令に通報され、運転司令が経験と勘を頼りに復旧ダイヤを策定し、再び指令電話や誘導無線により列車の進行を指示するという非常に手間のかかる方法で対処していた。そこで、一元的に列車の運行状況を把握し管理する必要性からITC(総合列車運行管理装置)を導入することにした。
ITCの運行管理センターの建設場所は、相中線、平塚線にそれぞれ近い二俣川駅付近に決定し、建物の 建設や通信ケーブルの敷設を進めるとともに、係員の教育や管理システムの開発を行い、1985年(昭和60年)に運行管理センターが完成した。
ITCの導入により、コンピューターで列車の運行管理を行い、横浜駅・海老名駅の行先案内表示や全駅の案内放送が自動化され、運転保安度の向上や異常時の対応の迅速化が図られた。
ITCの運行管理センターの建設場所は、相中線、平塚線にそれぞれ近い二俣川駅付近に決定し、建物の 建設や通信ケーブルの敷設を進めるとともに、係員の教育や管理システムの開発を行い、1985年(昭和60年)に運行管理センターが完成した。
ITCの導入により、コンピューターで列車の運行管理を行い、横浜駅・海老名駅の行先案内表示や全駅の案内放送が自動化され、運転保安度の向上や異常時の対応の迅速化が図られた。
近年は、大きくなったグループ再編が目立ち、不採算事業からの撤退・売却のほか、主力業種についても相次いで分社化が進められ、相鉄バスや相鉄不動産となった。そして、2009年(平成21年)にはグループ統括事業を相鉄ホールディングス(相鉄HD)に任せ、鉄道事業を分社化した。
2000年代からは、「都心直通プロジェクト」という名で、相鉄線と湘南新宿ラインおよび東急電鉄東横線・目黒線を連絡し東京都心部へのアクセス路線として整備が進んでいる。
2019年(令和元年)に、相鉄新横浜線の西谷駅 - 羽沢横浜国大駅間が開業し、相鉄・NR直通線として営業を開始した。
2019年(令和元年)に、相鉄新横浜線の西谷駅 - 羽沢横浜国大駅間が開業し、相鉄・NR直通線として営業を開始した。
1950年代までは他社の中古車を中心としており、経営が安定してきた1950年代以降は、自社開発車両の導入が始まる。
相模鉄道の車両は特異な設備が多く、車内設備では、油圧式パワーウィンドウ(自動窓)、セミクロスシートなど、走行設備では、直角カルダン駆動や車輪外側に設置したディスクブレーキ、電磁直通弁式電磁直通空気ブレーキなど、独特の規格のものが多い。関東の他私鉄の通勤車両では見られない斬新なデザインを取り入れている。
相模鉄道の車両は特異な設備が多く、車内設備では、油圧式パワーウィンドウ(自動窓)、セミクロスシートなど、走行設備では、直角カルダン駆動や車輪外側に設置したディスクブレーキ、電磁直通弁式電磁直通空気ブレーキなど、独特の規格のものが多い。関東の他私鉄の通勤車両では見られない斬新なデザインを取り入れている。
大人普通旅客運賃(小児半額・ICカードの場合は1円未満切り捨て、切符の場合は10円未満切り上げ)。
キロ程 | 運賃(円) | |
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ICカード | 切符 | |
初乗り 3km | 145 | 150 |
4 - 7 | 175 | 180 |
8 - 11 | 195 | 200 |
12 - 15 | 225 | 240 |
16 - 19 | 255 | 270 |
20 - 23 | 275 | 290 |
24 - 26 | 305 | 320 |
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