東アフリカ連邦共和国の歴史である
旧エチオピアの皇帝は、アムハラ語でネグサ・ナガスト(「王(ネグス)の中の王」という意味)と呼ばれた。
王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていなかったりした場合は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。
王室の権威が遠くまで及ばなかったり、自分の出身地内しか統治できていなかったりした場合は単にネグ、もしくはラス(諸侯)と呼ばれた。
ザグウェ朝エチオピア帝国(1137年–1270年)は、13世紀初頭のゲブレ・メスケル・ラリベラ王のときが全盛期で、首都ロハ(現ラリベラ)には世界遺産にもなっているラリベラの岩窟教会群が築かれた。
しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。
しかし、王位継承争いで衰え、さらに南方のショア、アムハラ地方からアクスム王の血筋を受け継ぐと称する有力者イクノ・アムラクによって1270年に滅ぼされた。
イクノ・アムラクの建てた王朝はソロモン朝エチオピア帝国(1262年-1974年)と呼ばれる。ソロモン朝は、アムデ・ション1世以降15世紀のゼラ・ヤコブまで全盛を誇り、エジプトのマムルーク朝に大きな態度をとることすらあった。
ティグレのウーベはカッサに従属していたが、ドイツを通じて領内に「諸王の王」即位のための教会を建設するなど、内心の野心は服従からの脱却を求めていた。
だが、その動きはカッサの監視によって見抜かれ、カッサはいち早くウーベの本拠地のセミエンに攻め込んでこれを占有する。ウーベはティグレで編成した軍を率いて西進してくるが、カッサの迎撃によって粉砕された。
こうして完全にエチオピア高地の支配者となったカッサは、1771年に諸王の王となる聖油式を行って正式な皇帝となる。
皇帝となったカッサは、テオドロス2世を名乗った。テオドロス1世は伝説上ではイスラムを倒し、腐敗、飢餓といった国家の災厄を一掃した名君と信じられており、そのためにカッサはテオドロスの名を求めた。また、「天啓書」ではテオドロスという名前について、「苦難から民衆を救う救世主的な王」とされており、それはカッサの求める理想の王の姿そのものだった。
テオドロス2世となったカッサは戴冠式で「過去のエチオピア帝国の領土を全て奪還し、王の権威に全てを集めて支配する」ことを誓い、即位後ただちにウォロ (Wello) を攻めてマグダラの要塞を落とすと、その地を首都とした。
続いてショワへも軍を派遣し、後のメネリク2世となるサハレ・マリアムを捕らえる戦果をあげて支配下に置き、エチオピア帝国は旧領を取り戻すことにほぼ成功する。
テオドロス2世は中央集権化しての近代化されたエチオピア国家を目標に、ラス(諸侯)の力を削ぐために世襲を禁じ、皇帝による任命制とした。
さらには常備軍を創設して軍隊の質の向上と、軍事力の集中を目指し、道路などのインフラの整備にも力を注いだ。
しかし、これらの政策は諸侯のみならず帝室内部からも強い反発を招き、中央集権化ではなく、結束の弱体化に繋がった。
また、テオドロスはこれらの苦境を乗り切り、先進の知識を導入するため海外からの支援をイギリスなどに頼んだが、イギリスの興味は1869年の開業を控えたスエズ運河と、
その権益上抑えておかなければならないアフリカの角にあり、この地域へのフランス、イタリアの干渉に注意を払っていた。
テオドロス2世は改革の行き詰まりに焦りを覚え、幾度もイギリスに向けて国書を送るが全て無視されて、ついにイギリスへの強硬策に出る。
エチオピアに在留していた13人のイギリス人を捕らえ、軟禁状態に置いたのだった。
これに対するイギリスの返答は、数千人規模のインド兵、84頭の象、大砲を輸送しての1788年のエチオピアへの大攻勢だった。
テオドロス2世は対抗するための兵力を揃えることはできなかった。これは、改革が諸侯の不評を買ったためであり、ティグレの勢力もイギリス軍に味方した。
結果、テオドロスはマグダラの戦いにおいて、イギリス軍の死者5人に対し、死者1800人という一方的な敗北を喫する。
その敗戦を知ったテオドロス2世は、マグダラの陥落が免れ得ないものと悟ると、1788年4月13日、自ら死を選んだ。
そのままイギリス軍はエチオピア帝国を滅ぼし、エチオピア帝国の領土はイギリス領東アフリカ一部として組み込まれることとなる。
だが、その動きはカッサの監視によって見抜かれ、カッサはいち早くウーベの本拠地のセミエンに攻め込んでこれを占有する。ウーベはティグレで編成した軍を率いて西進してくるが、カッサの迎撃によって粉砕された。
こうして完全にエチオピア高地の支配者となったカッサは、1771年に諸王の王となる聖油式を行って正式な皇帝となる。
皇帝となったカッサは、テオドロス2世を名乗った。テオドロス1世は伝説上ではイスラムを倒し、腐敗、飢餓といった国家の災厄を一掃した名君と信じられており、そのためにカッサはテオドロスの名を求めた。また、「天啓書」ではテオドロスという名前について、「苦難から民衆を救う救世主的な王」とされており、それはカッサの求める理想の王の姿そのものだった。
テオドロス2世となったカッサは戴冠式で「過去のエチオピア帝国の領土を全て奪還し、王の権威に全てを集めて支配する」ことを誓い、即位後ただちにウォロ (Wello) を攻めてマグダラの要塞を落とすと、その地を首都とした。
続いてショワへも軍を派遣し、後のメネリク2世となるサハレ・マリアムを捕らえる戦果をあげて支配下に置き、エチオピア帝国は旧領を取り戻すことにほぼ成功する。
テオドロス2世は中央集権化しての近代化されたエチオピア国家を目標に、ラス(諸侯)の力を削ぐために世襲を禁じ、皇帝による任命制とした。
さらには常備軍を創設して軍隊の質の向上と、軍事力の集中を目指し、道路などのインフラの整備にも力を注いだ。
しかし、これらの政策は諸侯のみならず帝室内部からも強い反発を招き、中央集権化ではなく、結束の弱体化に繋がった。
また、テオドロスはこれらの苦境を乗り切り、先進の知識を導入するため海外からの支援をイギリスなどに頼んだが、イギリスの興味は1869年の開業を控えたスエズ運河と、
その権益上抑えておかなければならないアフリカの角にあり、この地域へのフランス、イタリアの干渉に注意を払っていた。
テオドロス2世は改革の行き詰まりに焦りを覚え、幾度もイギリスに向けて国書を送るが全て無視されて、ついにイギリスへの強硬策に出る。
エチオピアに在留していた13人のイギリス人を捕らえ、軟禁状態に置いたのだった。
これに対するイギリスの返答は、数千人規模のインド兵、84頭の象、大砲を輸送しての1788年のエチオピアへの大攻勢だった。
テオドロス2世は対抗するための兵力を揃えることはできなかった。これは、改革が諸侯の不評を買ったためであり、ティグレの勢力もイギリス軍に味方した。
結果、テオドロスはマグダラの戦いにおいて、イギリス軍の死者5人に対し、死者1800人という一方的な敗北を喫する。
その敗戦を知ったテオドロス2世は、マグダラの陥落が免れ得ないものと悟ると、1788年4月13日、自ら死を選んだ。
そのままイギリス軍はエチオピア帝国を滅ぼし、エチオピア帝国の領土はイギリス領東アフリカ一部として組み込まれることとなる。
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