りゅうきゅうけん 琉球県 | |
基本情報 | |
---|---|
国 | 大日本帝国 |
地方 | 南海地方 |
面積 | ㎢ |
総人口 | 1,782,000人 |
隣接都府県 | 大隅県(海上) |
琉球県庁 | |
知事 | 渡嘉敷 貴 |
県庁所在地 | 那覇市 |
琉球県領域 | |
- 奄美群島
- 奄美大島
- 喜界島
- 徳之島
- 沖永良部島
- 与論島
- 沖縄諸島
- 沖縄島
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- 尖閣諸島
古代では、714年(和銅7年)に「信覚・球美」などの人々が来朝したと記されており、「信覚」は石垣島、「球美」は久米島に比定されている。また753年(天平勝宝5年)には鑑真が渡航の途中「阿児奈波島」に到着したとされ、これは沖縄本島のこととされる。これ以後の沖縄の名称は長らく記録から消える。
貝塚時代後期に入ると、九州南部や中国との交易が次第に盛になった。
貝塚時代後期に入ると、九州南部や中国との交易が次第に盛になった。
12世紀ごろから琉球でも稲作・畑作を中心とした農耕社会に移行し、農耕を基盤とした社会が成立し、集落は海岸部から農耕に適した台地に移った。この時代は日本や中国大陸との交流が盛んで、中国だけでなく東南アジアの陶磁器も輸入されており、アジア貿易の中継点としての重要性を増してきた。これらで力をつけた有力者は地元の農民を束ねて豪族(按司)となり、石垣で囲まれた城(グスク)を築き、周辺の集落を傘下に入れ小国家へと発展した。
14世紀に入ると各地の按司を束ねて三つの国にまとまった。察度が治める中部の中山、承察度が治める南部の南山(山南)、帕尼芝が治める北部の北山(山北)である。
この時代は三山時代と呼ばれ、約100年続いた。南山の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばし、1406年に中山王・武寧を討った。
その後、尚巴志は首里城を王都とし、父の尚思紹を中山王とする。これが第一尚氏王統の始まりである。巴志はさらに山北の攀安知、山南の他魯毎を討ち、1429年、三山統一を成し遂げる。これをもって琉球王国の始まりとなった。
この時代は三山時代と呼ばれ、約100年続いた。南山の佐敷按司であった尚巴志が急速に勢力を伸ばし、1406年に中山王・武寧を討った。
その後、尚巴志は首里城を王都とし、父の尚思紹を中山王とする。これが第一尚氏王統の始まりである。巴志はさらに山北の攀安知、山南の他魯毎を討ち、1429年、三山統一を成し遂げる。これをもって琉球王国の始まりとなった。
中山王・武寧を討った佐敷按司尚巴志は首里城を王都とし、父の尚思紹を中山王とする。これが第一尚氏王統の始まりである。巴志はさらに山北の攀安知、山南の他魯毎を討ち、1429年、三山統一を成し遂げる。これをもって琉球王国の始まりとなった。
巴志は父の死後、第二代の王となるが、その後の国王はいずれも短命であった。尚思達王は1447年、奄美大島を征服し王国の版図に加えた。
巴志は父の死後、第二代の王となるが、その後の国王はいずれも短命であった。尚思達王は1447年、奄美大島を征服し王国の版図に加えた。
1872年(明治5年)琉球藩が設置され、琉球国王の尚泰を「琉球藩王」に封じた。1874年(明治7年)に台湾出兵により、日本の航客に危害を加えないなどの統括権などが事後処理条約で確認され、清との外交事件が帰着した。1879年(明治12年)明治政府は琉球藩を廃して琉球県を設置した。
琉球県は、明治維新後に近代化を急いだ日本本土に比べても更に法整備が遅れ、琉球時代旧来の体制が長く残存していた。人頭税廃止を求める住民が運動を起こしたことをきっかけに、琉球県各地で旧制度廃止・改善をめぐる運動が起こった。これにより、徴兵制、地租改正、市町村制、府県制、衆議院議員選挙法などが、本土から10年から25年遅れて施行された。
沖縄本島には軌道系交通機関が存在した。明治時代末に沖縄電気軌道が沖縄初の運輸営業を行う鉄道が開通したのを皮切りに、大正時代には沖縄本島に鉄道会社が4社にまで増加、営業路線も北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで拡大し、絶頂期を迎えた。しかし、道路交通が発達すると、軌道系交通機関は不利となり、鉄道化による高速化、大量輸送化が進んだ。
沖縄本島には軌道系交通機関が存在した。明治時代末に沖縄電気軌道が沖縄初の運輸営業を行う鉄道が開通したのを皮切りに、大正時代には沖縄本島に鉄道会社が4社にまで増加、営業路線も北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで拡大し、絶頂期を迎えた。しかし、道路交通が発達すると、軌道系交通機関は不利となり、鉄道化による高速化、大量輸送化が進んだ。
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