最終更新: ecoyuri1952 2020年11月13日(金) 22:12:56履歴
豊後高田市(ぶんごたかだし)は、大分県の市町村である。寂れた古い商店街を逆手に取り観光資源にした昭和の町を擁す観光都市として、また行政サービスの行き届いた子育てのしやすい街としても有名である。
昭和の空気がいまもなお | |
---|---|
豊 後 高 田 | |
昭和の町 | |
基本情報 | |
人口 | 18,506人(推計2020年10月1日) |
面積 | 124.57km2 |
豊後高田市役所 | |
市長 | 佐々木 幸代? |
議会 | 豊後高田市議会 |
議会与党 | 大分県民ファーストの会 |
大分県北部の国東半島の西部に位置し、瀬戸内海の端にあたる周防灘に面する。 中心市街地は二級河川の桂川に沿って平野部に広がる高田地区に広がり、かつては海運と商業の街として繁栄した。その北側の玉津地区には高田城跡にも利用された丘陵地があり、江戸時代以降居住区が拓かれた。 中津市から車で約30分、大分市から車で約1時間ほどの位置にあり、旧豊前国と豊後国の境界にあり、水崎は豊前国にあたり境界標がある。豊後高田及び宇佐市一帯を二豊というエリアで表すことがある。 大分県北部に位置することから、生活面、文化面等で中津市・宇佐市との関係が深い。経済的に中津市を中心とする小規模経済圏の中津都市圏に属する。
大分県北部にある豊後高田市は、国東半島の中心にある両子山の火山活動により、放射状に河川と谷が伸びる。半島の中心に近づくと角礫凝灰岩質の差別侵食を受けた不規則な山容が広がる。メサ状の屋山、猪群山などもあるが、岩場が露出する天念寺耶馬や中山仙境などもある。 海岸沿いまで舌状に伸びた尾根は、波による侵食を受けて、海蝕洞穴を形成している(長崎鼻など)。東九州としては珍しく、海を西側に望む地形をしている。干潟の現れる入江が多く、渡り鳥の逗留地となっている。
- 718年(養老2年) 宇佐八幡神の応現とされる仁聞が六郷満山を開く(この年代は伝説的なものであるが、奈良から平安時代にかけて国東半島に寺院群が形成された)。
- 奈良時代末ごろ、森地区に宇佐弥勒寺の覚満が薬恩寺が創建する。隣接の佐野地区のカワラガマ遺跡から、薬恩寺のものと見られる瓦が出土している。
- 11世紀後期 内陸部の田染地区に宇佐神宮の最も重要な荘園のひとつと評価される田染荘や来縄郷が開かれる。
- 平安後期 六郷満山文化が栄え、大分最古の磨崖仏である熊野磨崖仏、国東半島の自然神を不動明王に見立てた太郎天、真木大堂に現存する巨大な仏像群などが作られた。
- 平安末期 現存する九州最古の木造建築物である富貴寺大堂が建立される。
- 1196年(建久7年) 高田重定により高田城が築かれたとされる。
- 中世の頃は、長安寺が六郷満山の中心となって、疫病・元寇の際に祈祷を行っている。国東半島の荘園に基盤を持つ、都甲氏や真玉氏などが戦場で活躍する。
- 南北朝時代には、宇佐神宮への御供米を供出するため、御玉・水取一帯に小野荘が開かれた。
- 15世紀頃から大友一門の吉弘氏が都甲地区を中心に土着(居城として屋山城が知られる)。戦国時代には吉弘鑑理、吉弘鎮信、高橋紹運、吉弘統幸、立花宗茂らを輩出する。
- 1579年(天正7年) 田原親貫の乱の際に、佐野鞍懸城が主な戦場の一つとなる。
- 1600年(慶長5年)別府で挙兵した大友吉統に吉弘統幸が呼応し、石垣原の戦いで細川・黒田軍と戦って討ち死にする。この際、高田城主の竹中重利は西軍の立花宗茂に兵を供出していたが、黒田官兵衛が城に近づいた際に東軍についた。
- 1632年(寛永9年)能見松平家の松平重直が豊前国竜王(大分県宇佐市安心院町)に入封し竜王藩が成立。
- 1639年(寛永16年) 能見松平家が居城を高田に移し高田藩と称する。
- 1669年(寛文9年)深溝松平家の島原藩の飛び地となり、島原領豊州陣屋が築かれる。
- 1826年(文政9年)には、日田の代官塩谷大四郎の命により、広瀬久兵衛が中心となって呉崎新田を干拓した(完成は3年後の1829年)。
- 1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、現在の市域にあたる以下の町村が発足。
- 1907年(明治40年)4月1日 高田町・玉津町・来縄村・美和村が対等合併し、新町制による高田町となる。
- 1941年(昭和16年)10月1日 前日より続いた豪雨により、三畑ダムが崩壊し、町部を含めた大きな災害が発生。長岩屋地区では、天念寺本堂・護摩堂が流されたり、流された児童を助けるため桑野訓導が命を失ったなどの話が伝わる。
- 1951年(昭和26年)4月1日 高田町・河内村・東都甲村・西都甲村・草地村が対等合併し、新町制による高田町となる。
- 1954年(昭和29年)3月31日
- 1954年(昭和29年)5月10日 高田町が名称変更し、豊後高田町となる。
- 1954年(昭和29年)5月31日 田染村を豊後高田町に編入。同時に豊後高田町が市制施行し、豊後高田市となる。
- 1955年(昭和30年)3月31日 封戸村の水崎地区を豊後高田市に編入(封戸村の他地域は宇佐町・北馬城村と対等合併して宇佐町となる)。
国東半島の西側に位置し、昭和時代までは海運の要衝として商業が発達していた。当時の町並み・遺産昭和の町を活用した商店街活性化政策が著名。 また、移住者に対する細やかな施策から、移住の町として知られ、新宝島社の住みたい田舎ベストランキングの上位常連である。
豊後高田市議会 | |
---|---|
種類 | |
種類 | 一院制 |
役職 | |
議長 | 大橋 卓也?(大分県民ファーストの会) |
副議長 | 土井 常光?(日本社会党) |
構成 | |
定数 | 16人 |
会派名(議席図の色に準拠) | 議席数 |
大分県民ファーストの会中津市議団 | 9議席(市政与党) |
社会党市議団 | 4議席(市政野党第一党) |
民主クラブ | 2議席 |
無所属 | 1議席 |
議席番号 | 会派名 | 議員名 | 役職等備考 |
1 | 大分県民ファーストの会中津市議団 | 大橋 卓也? | 議長 |
2 | 大分県民ファーストの会中津市議団 | 野村 雅美? | 会派代表 |
3 | 大分県民ファーストの会中津市議団 | 長山 春樹? | |
4 | 大分県民ファーストの会中津市議団 | 木谷 三郎? | |
5 | 大分県民ファーストの会中津市議団 | 曽根 俊? | |
6 | 大分県民ファーストの会中津市議団 | 三池 百合根? | |
7 | 大分県民ファーストの会中津市議団 | 仲田 美智子? | |
8 | 大分県民ファーストの会中津市議団 | 伊藤 けい? | |
9 | 大分県民ファーストの会中津市議団 | 大友 樹? | |
10 | 社会党市議団 | 土井 常光? | 副議長 |
11 | 社会党市議団 | 赤城 真美? | 会派代表 |
12 | 社会党市議団 | 田中 優太? | |
13 | 社会党市議団 | 大野 健人? | |
14 | 民主クラブ | 立花 隆弘? | |
15 | 民主クラブ | 山田 喜助? | |
16 | 無所属 | 里見 吉兵衛? | (一人会派、豊後高田市長老会) |
タグ
コメントをかく