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大神国の歴史、または夜去史は夜去ノ狼尊大神国の歴史のこと。本項では大神国の歴史を遊牧民族が定住した部分から歴史を解説していくこととする。

先史時代

先史時代は現在の大神国の歴史的都市が位置する高原地帯に人が定住するまでの経緯を述べる。

モンゴル族の定住

大神国には古来よりモンゴル族やそのほかの遊牧民族が存在した。これらの遊牧民族は基本的に馬や羊などを家畜化して、生活をしていた。これらの生活形態は今現在の大神国の遊牧民族全体に見ることができる生活形態であると考えられている。
しかし、一部の遊牧民族の人間が一か所の地域にとどまり始めた。これらが始まった時期は諸説あるし、初期の遊牧民族の定住といっても一つの場所にとどまる期間が比較的伸びただけである*1
遊牧民族の定住の決定打となったのは、月映湖の発見である。この、モンゴル族の行動範囲ではめったに出会えなかった水源などが目の前に現れた。これを「定住始祖」と大神国では呼んでいる。このことは、月映湖周辺で発見された「基礎」が存在する「石造り」の建物が発見されたことによって、証明されたものである。

自然信仰の始まり

この定住したモンゴル族はこの運命的な湖との出会いは、「宗教」という概念を生むことになった。そもそも、遊牧民族というのは過酷な環境で生活するものなのであるが、数万年もの間行っていた「遊牧」という活動を数千年で「定住」という生活形態に転換しようとするのだからそれ以上に厳しかったものに違いないと考えられている。
その過程で、指導者が民族を統治するには「超常的」な存在が必要であったと考えている。そして、指導者は「超常的」な存在は月映湖を神とみなして信仰するある意味での「自然信仰」が生まれていったと考えられている。つまりは、このような経緯で生まれたのが大神国における「宗教」なのでありこれらは結局神国神道(夜去神道)につながっていくのである。
また、このころからのちの星詠神道につながっていく「占星信仰」が広まっていく。これらの宗教を信じている民族を月美兎族といい、自然信仰を始めたモンゴル族から分派して現在のアルタイの付近に都市を築いた。

月美兎大皇国(星詠大皇国)の誕生

ここでは大神国で初めての定住民族による王朝である月美兎大皇国が成立するまでの経緯を述べる。この期間は「第一王朝」と呼ばれている。

大陸最古の王朝の誕生

月美兎族は、モンゴル族から分派してアルタイの付近に都市を建築した。この都市は現在の月美兎市へとつながっている。さて、星詠神道は東洋的な占星的な宗教行為*2を以て未来を予知できるとする宗教であった。
つまり、この星詠を行う機関が相対的にその国の意思決定機関となるのであって自動的に中央集権的な国家となっていくのである。この国では、それが星詠院でありその長が星詠院長である。
この民族はこの星詠院長の指導をもとに団結して国力を蓄えていったことが判明している。その後、モンゴル族と戦乱を起こしてモンゴル族を倒した後、モンゴル族の住んでいた地域に都市を築いてそこを新たな拠点とした。これによって現在の大神国の本土のほとんど半分を勢力下におくことに成功した。

夜去民族の定住

そのころ、月美兎大皇国によって月映の土地を奪われた夜去族は、月飛(現在の神居付近)に新たな都市を作った。この都市が現在の神居につながっている。神居では、月美兎で天体などを依り代とする星詠神道が発展していったのと対照的に自然を依り代とする自然信仰を軸とする夜去神道が発展していった。
夜去民族は、月美兎大皇国と対立していき勢力圏の境界線付近で小競り合いを繰り返すようになった。また、夜去民族は大皇国の侵攻を防ぐために勢力圏の境界線付近で防壁を建設しだした。ちなみにこの防壁は建設途中で建設を断念したことが分かっているが理由は分かっていない*3
どちらにせよ、この似て非なる宗教を信じる同じ民族をルーツに持つ二つの民族は今後千年にわたって超大規模な戦いを繰り広げていくこととなる。

大皇国の栄華〜西方大拡大〜

月美兎大皇国は「西方大拡大」の方針を掲げた。これは、西方に当時遊牧民族が存在しこれらを掃討する意味合いと東方への勢力拡大が夜去民族の台頭によって非常に難しくなっていった二つの理由が当時の国史である「文令官日記」で記されている。月美兎大神国がもつ、騎馬弓兵と呼ばれる騎馬兵が高威力の弓を扱うという戦法や遊牧民族にはなかった集団戦法、情報通信能力などによって次々と西方の遊牧民族を撃破。いまのカザフスタン付近一帯をその勢力圏に置いた。また、ここを勢力圏としたことでさらに西方への交易路が開通してヨーロッパ付近の国々との交易などによって大皇国は莫大な利益を得ることとなる。

海洋拡大〜夜去族の発展〜

一方、現在の本土東側と満州、朝鮮半島をその勢力圏においた夜去族は朝鮮半島沿岸の竈山(現在の釜山)に都市を築いて日本列島への進出を図った。竈山から出発した大神国の船団は対馬を経由して現在の博多市周辺に上陸したとみられている。
ここで、夜去族は交易や布教活動などを行うとともに当時の日本列島の様子を書物などに書き記して大神国に持ち帰った。
これが東邦星詠調と呼ばれる書物である。星詠とは夜去神道においては記録官のような意味合いで使われており、この星詠調とは各機関からの報告を聞いてそれを書物にまとめたものをいうのでこの星詠調を記した人物と日本列島にわたった人物は同一人物ではないと考えられている。
それはそうと、東邦圏との交易によって莫大な利益を得た夜去族は、新疆東部や内蒙古などにも勢力圏を拡大して大皇国に対抗する一大勢力と化していった。

戦乱期

ここでは、月美兎族と夜去族の千年以上に渡る戦乱期を記述する。この期間、歴史的にも異例とも言える千年以上の戦乱に突入した。この期間を「千年戦乱」とよんでいる。

千年の戦乱への突入

前章で述べた両者の台頭は、同じ宗教をベースとしながらも主張に違いのあった二つの民族を衝突させるのに最も重要な鍵となった。紀元前2300年ごろ、夜去大神国が月美兎に派遣した一人の布教者の死体が大神国側に送り返されるという事件が発生じた(芝宮戦乱)。おそらくこれを受けたものであろうとされるが、当時の大神国はこれに激怒して大軍勢を月美兎に侵攻させた。
この侵攻は、事実上の夜襲だったため月美兎の守備隊はほぼ全滅。国境付近の町が夜去側の支配下におかれることとなる。これを、夜去側の軍勢を率いた将軍である「芝宮」だったことにちなんで「芝宮」戦乱と呼ばれている。
なお、千年の間に非常に多くの戦乱が行われたので本章では代表的な四つの戦乱と月美兎の敗北の身について述べる。なお、この千年の間に繰り返された大きな戦乱は2万ともいわれており、この戦乱で千年の間に失われた命は10000人以上とされている。

大水瀬戦乱

紀元前1200年代に、星詠の勢力下におかれていたモンゴル族系の都市国家であるオールラィ(現在の水瀬本宮)の姫が夜去の宮殿にささげられるという事件が発生した。これは、オールラィの王である「ウルチジィ=オールラィ」が夜去への服従に鞍替えするために娘を捧げたものであった。
当時、オールラィは国境付近の夜去側の都市であるムーラィ=エルィ=オーリィに非常に近くここを奪われることは大皇国側にとって非常に痛手であったため当然大皇国側は激怒して大規模な軍勢を派遣した。この派遣は、同時に大神国側の都市を征服することも視野に入れていたともされている。この動きを知った大神国側も三十万を超える大軍勢をオールラィに派遣した。これによって、オールラィには大軍勢がひしめき合うこととなった。
いずれにせよ、オールラィをめぐって発生したこの大戦は非常に長い間続き、68年もの間続いたともされている。何度か、オールラィの制圧権を両軍で奪い合ったあと夜去側が占領することとなった。

月映湖の戦い

紀元前1100年ごろのモンゴル大陸はどちらかというと夜去側に戦況が傾いていた。百年もの間に大神国は一度、月美兎まで勢力下におくまで迫った。この項ではその戦いについて述べる。モンゴル北部の高原地帯の都市国家を征服しながら勢力圏を
進めてきた夜去は、ついにモンゴル族始まりの地でもある月映湖付近まで4万にも及ぶ軍勢を迫らせていた。月映湖の南側の旧モンゴル族居住区に新たな駐屯拠点を築いて、大皇国の信仰拠点まで征服した。ちなみに、この征服した信仰拠点はこのあと戦乱などによって三回にわたって燃やされることとなる。燃やされた後に、夜去勢力下で再建されることになるのだがそれについてはまたあとで述べることとする。
しかし、遠方での戦いには多少月美兎側に不利があったとしてもいわゆる「ホーム側」では明らかに月美兎側に分がある。月美兎の首都に攻め込もうとした夜去軍をことごとく追い返して体勢を立て直し、月映湖もその勢力下に取り返すこととなる。そして、この戦いはここから二百年もの間月美兎側に有利な体制を構築するすべてのきっかけとなる。

オールラィの戦い

前述の月映湖の戦いののち、体制を立て直した月美兎軍は再びオールラィの占領を目指して攻め込むこととなる。なぜなら、このころオールラィは宗教的な面で月美兎の影響が根強く残っていたのに加えて夜去側が遊牧民族との交易拠点としても使用しており、オールラィを抑えると莫大な富と交易拠点が手に入ることを意味していた。
これにより、月美兎側は五万にも及ぶ軍勢をオールラィに派遣してオールラィの実効支配権を奪取した。しかし、このオールラィの占領は月美兎側の判断機構に安堵を与えるには十分であった。なぜなら、当時のオールラィは特級の貴族の直轄におかれており、ここを占領したということは月美兎が多くの戦力と富を手に入れたということであった。そして、当時の月美兎側の見立てではここを支配していた貴族を抑えることによって大神国側の戦意を喪失させて、この長きにわたった戦乱を自らの勝利で終了させることはいともたやすいことだと考えていた。
しかし、このあとこの慢心を基に夜去の首都に兵を進めた結果は、月美兎の滅亡という結果をもたらすこととなる。

神居の戦い

先述のオールラィの戦いで、多くの兵力を失った夜去は徴募をしたり、新型の長距離武器の開発を行うなどしてきたる「首都決戦」に備えるために着々と準備を整えていた一方、秘密裏に超大規模な軍勢を何十等分もして月美兎に送っていた。
一方、この戦いで慢心をしていた月美兎はさらに十二万の兵力を用いて夜去側を一気に攻略して、自らの勝利でこの戦乱を終わらそうと考えていた。このとき、この長く続いた戦乱は千年余りもの長さに達しており、さすがに両国の間では疲労感と厭戦気分が広がっていた。そのため、どちらの政府も短い間に自らに有利な形で決着を付けなければ国が亡ぶような戦乱が起こることは目に見えて明らかであった。このため、両国は早急に事態の打開策を探ろうとしていたのである。
最初に手を出したのは月美兎であった。援軍がつき次第、猛スピードで攻略を開始して、その兵力は神居の近くの都市にまで及ぶようになっていた。神居ではこの時大混乱が起きていたという。
しかし、神居に月美兎軍が手を出すと一気に形勢が逆転した。大口径の大砲(といえるかどうかわからない代物)で、攻撃を行ったりそのほか様々な方法で月美兎軍に攻撃を与えた。そのため、月美兎軍は攻略を開始してからわずか三か月半もの間にその歩みを止めることとなってしまった。

月美兎の滅亡

神居の戦いで月美兎軍が受けた損害は非常に大きいものであった。なにしろ、月美兎を攻略されそうになってから必死でかき集めた兵士の半数以上を失ったのだから。これをきっかけに、月美兎大皇国は衰退の一途をたどっていくこととなる。
夜去の軍がオールラィを完全に制圧したのち、月美兎軍の士気は大幅に低下した。
当然といえば当然の結果だが、結局のところ月美兎軍は夜去側に自らの主要都市である月美兎側に攻め込ませることを許してしまった。大神国に長らく保存されてきた月美兎側の記録によると紀元前1200年ごろ、夜去側の軍が月美兎軍に回復不可能な大打撃を与える攻撃を仕掛け、これが成功してしまったと記されている。その、三日後にある夜去の将軍が書き記した日記に月美兎が完全に夜去の支配下にはいったことを喜ぶ記述が残されており、これを以てアジアで初めての宗教型中央集権国家であったと同時に、中央アジア一帯をおさめていた月美兎大皇国は完全に滅びたとみなされている。

大神国の成立と大陸での拡大

ここでは、夜去ノ狼尊大神国が中華大陸一帯に勢力を広げて行く経緯を解説する。この時期は大神国の歴史上初めて夜去族が中心となって運営した王国とされている。この時期は第一次夜去王朝と呼ばれる。

大神国の成立

先の月美兎との長年の戦乱に勝利した夜去は、紀元前1200年頃に「夜去ノ狼尊大神国」の建国を宣言したと記録されている。これが、現在の夜去大神国につながる夜去民族による蒙古統治の始まりである。
大神国が成立した当時の大神国の勢力圏は、蒙古を中心とする中央アジアの一部と新疆、満洲、朝鮮半島と東北平原一帯をその勢力圏としていた。
しかし、このあと三百年かけて中央アジア、中華一帯を支配する一大国家となり、この拡大はその後12世紀頃に訪れる世界大拡大と14世紀頃の蒸気機関発明の礎となる。
また、当時の大神国の支配地域では、多様な気候を有していたので各地で様々な独特の文化が発生した。
本項では、これについて述べながら、大神国の発展の礎となったこの頃の大拡大について述べることとする。

華北平原への進出

当時、華北平原一帯は北京(現大京)を拠点とする「漢民族」が支配していた。夜去側は先述した千年戦争時代、月美兎の問題が最も大きな問題であったものの国境付近での漢民族国家との戦争など様々な問題が絶えなかった。また、千年戦争が終結する直前には漢民族の首都である北京の付近までその勢力圏を伸ばしていた。
月美兎側との戦争が大神国の勝利という形で終わったこともあり、大神国の中央政府は華北平原を大神国の手中に収めるための大攻勢を決断することとなった。このころになると、大神国は完全な戦闘国家となっており北京に数万程度の戦力を終結させこれを占領。その後、華北平原一帯の各都市を占領したのちに、反逆者を徹底的に弾圧して大神国が北京を統治することを「民意」が望んだ。とされている。
結局、華北平原一帯の漢民族は、大神国の主要構成民族である夜去族に「奴婢」として扱われることとなり彼らは、恐怖的な方法によって強制労働をさせられたため、一年もたたないうちにその数が半減したという。この扱いが原因となって他の漢民族国家と戦争になることとなり、東アジア全体の流れを変えていく。

大神国による北京の支配

大神国による北京の支配は、今後三千年後に大逆事件によって大神国の支配から解放されるまで大神国によって統治されることとなった。北京は、北の禁城を意味する北禁(ほっきん)に名前が変更され大神国が華北高原と東北高原の西部を開拓する拠点と位置付けられた。
また、北禁東部には、東アジアの外交窓口となる「北禁口」が置かれ一大貿易圏として栄える予定だったが、そもそも三千年前の東アジアに他国と海を通じて交易できる余力を持った国家などほとんどあるはずもないことを失念していたのか、たまに日本の船舶が訪れるだけでそのほかは何も訪れない港となり、北禁商業都市計画は立ち消えることとなった。
このため、当時の北禁はあくまで政治的な重要拠点であり、交易の重要拠点はいまだに蒙古北部の月美兎でやり取りされるさまざまな物品であった。

夜去族とウルハーン族の「血縁締結」

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