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オスマン帝国はギリシャからエジプトまで広がる立憲君主制の国家である。現在の皇帝はオスマン家?46代当主のメフメト8世?である。首都はイスタンブールに置かれており、世界有数の列強となっている。1922年の改革により、キリスト教も信仰対象として認められたが、ユダヤ教も含まれて混沌と化しているエルサレム問題?は解決の方向が見えておらず、現在はキリスト・イスラームVSユダヤという状況となっている。

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オスマン帝国のニュース?参照。

1.概要

オスマン帝国は1299年に成立した国家である。国家元首はメフメト6世?であり、その補佐をする首相はエンドリー・タムスクア?が務めている。広大な領土を持つ一方で、聖地エルサレム?を有するなど、国内には様々なトラブルの種をもっている。

2.歴史

13世紀の末に東ローマ帝国とセルジューク朝の国境地帯付近で軍事集団を率いたオスマン1世が発祥となっており、そのまま国名になっている。オスマン君侯国の成立後、1326年にオスマン1世の息子である第2代皇帝オルハンは即位後、東ローマ帝国のブルサ?を占領、更にマルマラ海を隔ててヨーロッパを臨むことができるほどに領土が拡大する。同時期、後継者争いが激化した東ローマ帝国の皇帝、ヨハネス6世カンタクゼノスは娘をオルハンに嫁がせ、トラキア地方に進出をさせた。これによりオスマン帝国はヨーロッパへ進出を強めて行くこととなる。1354年に地震がガリポリを襲った際にガリポリを陥落させることができ、そこがのちのオスマン帝国海軍の本拠地の一つとなった。

2-2.ヨーロッパ侵攻時代

オルハンの息子のムラト1世は即位するとすぐにエディルネへ進軍し、占領。同街はその後第二首都となった。これと同時期にデウシルメと呼ばれるキリスト教徒の子弟を強制徴発するシステムを採用し、イェニチェリという常備歩兵軍を創設し、軍備の増強を図った。これは成功し、1371年にセルビア軍を撃破、東ローマ帝国やブルガリアはオスマン帝国に臣従することを余儀なくされた。1387年にテッサロニキを陥落。1389年のコソボの戦いでは、セルビア人貴族にムラト1世が暗殺されるも息子のバヤズィト1世が戦場で即位し、事なきで済み、コソボの戦いの勝利はバルカン半島の命運を分けることになった。またこの際に兄弟を殺して即位したことからオスマン帝国では帝位争いに勝ったものは兄弟を殺害するという習慣がついた。

1393年にタルノヴォを占領、しかしそれにとどまらず1394年にはペロポネソス半島まで占領。ほかにもボスニア、アルバニア、ワラキアなども支配下に収め、これに危機感を覚えたハンガリーの王、ジギスムントを中心に、十字軍を結成し、オスマン帝国を押し返そうとしたがニコポリスの戦いでこれを撃破。領土の拡大にも成功する。順風満帆に見えたが、1402年のアンカラの戦いでバヤズィト1世がマムルークに捕らえられたため、オスマン帝国は1413年まで空位の状態が続いた。

2-3.失地回復へ

バヤズィト1世が亡くなった後のアナトリア地域はオスマン帝国ができる前の小国乱立状態となっていた。そのためテッサロニキは東ローマ帝国の支配下に戻り、安静の時が流れていた。バヤズィト1世の息子メフメト1世は帝国を再統合することに成功した。その子のムラト2世はバルカンへと支配領域を増やし、1422年にはコンスタンティノープルを包囲、1430年にはテッサロニキやヨアニナ、1431年にエピロスを占領このオスマン帝国の動きにバルカンの諸民族は対抗しハンガリーの貴族フニャディやアルバニアの英雄スカンデルベグなどによって押し返されていたものの、フニャディはヴァルナの戦いや1448年のコソボの戦いで敗北しモレア、アルバニア、ボスニア、ヘルツェゴビナの地域を除くバルカン半島がオスマン帝国の支配下になった。スカンデルベグは1468年に亡くなり、以後1912年の大領土売却まで帝国の領土になった。

同時期、東ローマ帝国の皇帝ヨハネス8世は西欧諸侯からの支援を受けるため、フィレンツェ公会議に出席し、東西教会はこれにサインしたものの、西欧から支援が来ることはなかった。1445年から1446年にかけ、東ローマ帝国の最後の皇帝、コンスタンティヌス11世はギリシャにおいて、勢力を回復できたが、あくまでも一時的なものであり、オスマン帝国は反撃し、コリントス地峡の要塞を攻略し、ペロポネソス半島は再び帝国の支配下に戻った。

2-4.版図の拡大

1453年にメフメト2世はコンスタンティノープルを包囲し、陥落させ、東ローマ帝国を滅亡させた。コンスタンティノープルを陥落させた後、同地をギリシャ語に近いイスタンブールに改名し、モスク、水道、学校、病院、市場等を建て、略奪された町は復興していった。また、1460年にミストラを陥落させ、ギリシャを完全に支配下に置いたことでバルカン半島での支配を確立していった。また、この時期にコンスタンティノープルを包囲するのに反対したチャンダルル家出身の大宰相チャンダルル・ハリル・パシャを粛清、スルタン権力の絶対化や中央集権化を押し進め、トルコ系からそれ以外の民族が重職につく時代へと変わっていった。

コンスタンティノープルを征服した後もメフメト2世は征服事業を辞めず、バルカン方面ではギリシャ、セルビア、アルバニア、ボスニア、東ローマ帝国の残党、黒海沿岸のジェノヴァ植民地などを支配し、1475年にはクリミア・ハン国を征服した。また、ワラキアやモルダヴィアも臣従することになった。アナトリア方面に目を向けると、東部アナトリアやアゼルバイジャンを支配下に置いた白羊朝と対立し、1473年に戦いが起こったが、これを撃破。中部アナトリアを完全に支配下に置いた。また、海軍の拡大にも取り組んでおり、イスタンブールに造船所を築いたことにより、海軍力は増大し、レスボスなどのジェノヴァが支配する島々も支配下に置き、黒海北部の島、エーゲ海諸島も支配したことから黒海とエーゲ海をオスマンの内海とするに至った。しかし、メフメト2世の跡を継いだバヤズィト2世は後継者問題から拡張政策は行わなかった。

2-5.第一次最盛期

バヤズィト2世の子、セリムは父の消極性を批判しており、1512年に即位すると、積極外交が行われた。特に東部アナトリアやシリア・エジプト方面に目を向けた。東部アナトリアでは1514年にチャルディラーンの戦いで白羊朝にとってかわったサファヴィー朝イランの野望を打ち砕くと一転し、エジプトに目を向け、1517年にオスマン・マムルーク戦争を行い、マムルーク朝も降伏させ、メッカ?メディナ?を支配下に置いたことでイスラーム世界の支配者となった。また、その息子のスレイマン一世の時代には国力が増大し、中央ヨーロッパから北アフリカまで連なる大帝国となった。
2-5-2.インドネシア、ホルムズ方面
1505年からのポルトガル・マムルーク海戦によって1507年にホルムズを占領される。これに対しオスマン帝国も軍艦を派遣し、合同海戦を行ったが、1509年のディーウ海戦で敗北したことによって、インド洋の制海権を握られたため、長い間ホルムズは西欧国家の支配下に移った。また、インドネシア方面ではイスラーム国家のアチェ王国が支援を要請したため、同国に艦隊を派遣し、徐ホール王国やポルトガル領マラッカに攻勢を仕掛けた。
2-5-3.エジプト、中東方面
東ではサファヴィー朝と衝突、1514年にサファヴィー朝をアナトリアから放逐するとその勢いのままにイラクのバグダッドを占領。南側ではイエメンに出兵し、アデンを占領。エジプト方面ではポルトガル・マムルーク海戦迄同盟を結んでたマムルークを1517年に滅ぼした。1522年にエジプト州二代目総督としてムスタファ・パシャが就任したが、地方総督はマムルーク色が非常に強く、1524年には新しい州総督のアフメト・パシャが反乱を起こした。このような事態に対し、時の皇帝のスレイマン一世は大宰相のイブラヒム・パシャを派遣し、支配体制の強化を図った。
2-5-4.地中海・北アフリカ方面
1516年、当時の皇子であったコルクトはバルバリア海賊に公的な支援を行い、そのバルバリア海賊が同年にアルジェを陥落させ、翌年にはトレムセンも陥落させ、オスマン領アルジェリアを設立する。海上に目を向けると、1522年に行われたロドス包囲戦でムスリムに対し海賊行為を行っていたロドス島騎士団を壊滅させ、東地中海の制海権を完全に掌握した。1529年にスペインへ宣戦布告。5月にアルジェ要塞を陥落させる。10月にはフォルメンテーラ島でスペイン軍船を殲滅した。

1534年にはチュニスを陥落させるがハフス朝とスペイン=イタリア連合軍によって翌年に失陥。1536年にはフランスと秘密同盟を締結し、1538年にはプレウェザの海戦に勝利したことでアルジェリア海域までの地中海の制海権を得ることとなった。1541年には神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世によるアルジェ遠征が行われ、バルバリア海賊はキリスト教徒への海賊行為を終えることになった。

1550年にトレムセンを再度占領し、ザイヤーン朝を滅亡させた。翌年にはトリポリも陥落。オスマン領トリポリタニアを設立する。その後、前述の秘密同盟を事由にイタリア戦争に派兵し、干渉戦争を行った。1555年にベジャイアを占領。1556年のオラン包囲戦では包囲中にモロッコがトレムセンを包囲したこともあり、作戦は失敗に終わった。1560年のジェルバの海戦では勝利したものの、5年後のマルタ包囲戦では敗北し、翌年の1566年にスレイマンは死去。さらに5年後のレパントの海戦で大敗。しかし、クルチ・アリが半年で海軍を再建したため、制海権が一朝にオスマン帝国から失われることは防がれた。同年、キプロス島を陥落させ、キプロス州?が成立。1574年にはチュニスを再度攻略。オスマン領チュニスが設置される。17世紀中にクレタ島を陥落させると、同島はクレタ州?となった。
2-5-5.バルカン半島
過去にオスマン帝国統治下のバルカン半島は暗黒時代のような扱いとはなっていたが、これは大きな間違いであり、支配が強まっていた16世紀頃はそうではないとの見方が近年では強い。
オスマン帝国が勢力を拡張し始めたバルカン半島は、第二次ブルガリア帝国、セルビア共に滅びかけの状態であり、このほかにこの地域へオスマンを侵入させたのは分裂状態の東ローマ帝国だった。アンカラの戦いで敗れたオスマンにも対抗できず、さらに虐げられていた農民らは侵攻に呼応して反乱を起こすなど、散々な状況であった。
15世紀後半ごろにルメリア州が設置されると、バルカン半島を中心にした地域がここに属し、地中海州の設置でバルカン本土とエーゲ海諸島の多くがそちらに移管されることとなった。
1566年にスレイマンはハンガリー遠征中に没した。

2-6.軍事構造の変化と支配の混乱

スレイマンの治世では軍事的成功が多く、さらに建国以来。オスマン帝国が形成した制度は完成へと近づいた。だが、この時期はオスマンの制度転換へつながるのであった。主に挙げられているのがこれ以降の君主は陣頭に立ち出陣することはなくなり、政治においても大宰相?が担うようになっていった。また、オスマン帝国での住民はアスカリまたはレアヤーに分けられていた。アスカリは支配層に属するものやその関係者で構成されており、さまざまな特権を手に入れた。一方、レアヤーに属する人々は納税の義務を持ち、あらゆる人々が属した。

軍事的な面でもこの時期に火砲や常備軍中心へ変わる時期にあり、その結果としてイェニチェリなどの常備軍の重要性が増したことから、在地の騎士であったスィパーヒー層が没落し、イェニチェリは政治勢力として力をつけていった。また、今のオスマン帝国に見られる高度な官僚機構はこの変革期の中で作られ、17世紀ごろに完成した。

こういった繁栄の裏には宮廷の気の緩みから徐々に危機が進んでいた。1578年にサファヴィー朝との戦争がはじまると1579年に大宰相、ソコルル・メフメト・パシャが暗殺されてしまい、これ以後の大宰相は頻繁に交代することになった。また、17世紀前半になると各君主の母や皇后が政争を繰り返したことも重なり、宰相はたびたび変わることになる。
また、新大陸から流入した銀による価格革命や、13年間続いたハプスブルク家との争い、帝国東部におけるサファヴィー朝との争いにより、帝国では軍事費が増大していった。その結果オスマン帝国の財政は慢性的な赤字となった。
これに合わせて起こったインフレーションは極端であったため、通貨が急速的に不足していった。そのため質の悪い銀へ改鋳したがこの通貨は信用不安を招いた。さらに、イェニチェリの不満が蓄積し、1589年に起こったイェニチェリによる反乱は17世紀ごろまで続いた。しかし、この時期に大宰相として取り立てられたキョプリュリュ家の親子によってオスマン帝国の官僚機構は安定し、完成したともいわれる。

このような状況下、1645年、1656年にヴェネツィア共和国との戦争が始まる。1645年の戦争には勝利したが、1656年の戦争では首都が海上封鎖されたため、物価が高騰した。このような苦難の中ではあったがオスマン帝国はギリシャの大部分、ウクライナを獲得したため、スレイマン時代と同等の版図となった。だが、ここでオスマン帝国は下り坂へ突入してします。大宰相であったキョプリュリュ・メフメト・パシャの婿であったカラ・ムスタファ・パシャは1683年に第二次ウィーン包囲を行ったが、ポーランド率いる欧州諸国の援軍の前に敗北。16年続いた戦争はオスマン帝国の領土を縮小させるのであった。

2-7.領土の縮小とオスマン文化の繁栄

1683年から続いた大トルコ戦争の講和条約であるカルロヴィッツ条約においてオスマン帝国の領土は初めて削減され、さらに東欧での覇権、勢いをオーストリアのハプスブルク家に奪われることになった。翌年からの大北方戦争においては苦しい戦いを強いられ、1711年に有利な講和を結べたが、1718年に勃発した墺土戦争ではセルビアにおいて重要な拠点であったベオグラードを失ってしまった。

このようにオスマン帝国では軍事的な衰退が表面化しつつあったが、同時に西欧の技術や文化の吸収を行い、オスマン帝国の文化がさらに成熟していった時期であった。特に、アフメト3世の大宰相であったネフシェヒルリ・ダマト・イブラヒム・パシャの統治期では対外的な融和政策が行われた。これにより、オスマン文化は円熟していった。中には西欧からチューリップが逆輸入され、これが装飾として流行したため、「チューリップ時代」と呼ぶ歴史学者や文化学者が多い。
だがチューリップ時代も長くは続かなかった。イランへアフガーン人が侵入したことにより、サファヴィー朝が崩壊。これに乗じて出兵を行うもナーディル・シャーの登場により戦況は悪化。帝国の浪費に不満を持った人々は反乱を起こし、君主と大宰相を交代させるに至った。
この後、1735年に露土戦争が勃発し、1739年にニシュ条約とベオグラード条約を締結したことにより、ベオグラードを取り返すことに成功する。1747年にはナーディル・シャーも没したことにより、オスマン帝国は一時の平和へ突入する。この間に地方の徴税権を手に入れたアーヤーンが台頭し、彼らによって経済発展はしていたが、産業革命によって急速な経済発展をした欧州諸国とは確実な差ができつつあり、さらに欧州諸国はスレイマン1世の統治時に出されたカピチュレーションを利用し、オスマンの領土へ進出していった。

2-8.確定的な帝国の衰退、近代化へ

18世紀末からロシア帝国は南下政策を行い始めた。1768年に始まった第一次露土戦争ではキュチュク・カイナルジャ条約を締結し、黒海北岸を喪失。1787年に始まった第二次露土戦争ではヤシ条約を締結し、ロシアのクリミア半島領有を認める形になった。セリム3世は改革の必要性を感じ、欧州の軍制を取り入れた「ニザーム・ジェティード」を創設するが、イェニチェリの反対にあったため、計画は頓挫する。また、皇帝が廃位された。かつて最強と名高かったイェニチェリはこの時期となっては既得権益に固執するだけの旧式軍であった。

このような外部的要因による衰退とともに内部では成長し続けていたアーヤーンが地方において実権を握り、ギリシャ北部などを支配したテペデレンリ・アリー・パシャなどのように半ば独立政権の主として振舞うものも少なくはなかった。これにより、かつて強固だったオスマン帝国の中央集権体制は無実化することになった。さらに1798年に行われたナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征によってムハンマド・アリーがエジプトの実権を握り、フランス革命から波及していた民族独立と解放の機運はバルカン半島のキリスト教徒のナショナリズム運動を強めており、ギリシャ王国が独立戦争を起こすもかろうじて勝利する。この戦争から立ち直る間もなく、ムハンマド・アリーが世襲支配権を求め戦争を行うがこれも鎮圧に成功する。だが、バルカン半島への勢力拡大を計画したロシア・オーストリアと勢力の均衡を図るイギリス・フランスの思惑が絡まりあい、オスマン帝国の外交は混乱状態にあった。また、多くの反乱により勢力圏はバルカンの一部、アナトリア、アラブ、エジプトだけになっており、さらに内部の統治もできていないほどだったため「瀕死の病人」と揶揄されるほどだった。

ただ、オスマン帝国も何もしていないわけではなかった。マフムト2世はイェニチェリの廃止に踏み切り、軍を西欧化させたほか、外務省、内務省、財務省の3省を設立し、中央政府を近代化させ、さらに翻訳局を設け、留学生を西欧に送り、人材育成を行った。続くアブデュルメジト1世は改革派の官僚であったムスタファ・レシト・パシャが起草したギュルハネ勅令を発布し、政治改革を行うことを宣言。様々な面で西欧的な体制に変革を図るタンジマートを開始した。タンジマートによってオスマン帝国は中央集権的な官僚機構の再構成と近代軍隊の確立を進めていった。

1853年にロシアとの間にクリミア戦争が勃発する。この戦争はイギリスの協力があり、何とか勝利を収めるが、この際に改革目標をイギリスなどに表明して支持を獲得したため、1856年に改革勅令を発布の上、非ムスリム層の権利を認める改革を約束した。こうして次の段階へ突入したタンジマートではシャリーアと西洋における法律の折衷を目指した新たな法典の制定や近代教育を行う学校の設置、近代的土地所有を認める法律の施行など改革がすすめられ、オスマン銀行?も設立された。このような改革や戦争が長引くにつれ他国西欧の列強から多額の借金を必要としていたほか、貿易が拡大するにつれ西欧諸国への原材料輸出中心になっていったため、オスマン帝国は半植民地状態になっていた。その結果、オスマン帝国の財政は1875年に破産するに至った。

このような背景が要因となり、タンジマートは抜本的な改革をすることができなかったことが露呈した。西欧から新たな要求を受けたオスマン帝国では1876年にミドハト・パシャの下でオスマン帝国憲法(ミドハト憲法,旧憲法)を公布し、西欧型の法治国家であることを宣言。議会の設置やムスリム、非ムスリムにかかわらず臣民平等を行うなどが森こめられていた。だが、憲法発布からすぐの1878年に勃発した露土戦争で完敗し、当時の皇帝であったアブデュルハミト2世が専制体制復活のために、非常事態を口実としてこの憲法の停止を行う。一方では、オスマン債務管理局等を通じ、帝国の経済を掌握した諸外国によって、資本投下が進み、民間における西欧化が進んでいった。

2-9.すべての転機、滅亡回避へ

アブデュルハミト2世が専制政治を敷く一方で西欧式の教育を受けた青年官僚たちは専制政治による政治の停滞に危機感を感じていた。1889年に「統一と進歩委員会」が結成され、これらをはじめとする青年オスマン人運動へ参加し、憲法の復活、再制定を求める人が多くなった。また、同年の「エルトゥールル号遭難事件」が国内における親日感情を高めており、1905年からの日露戦争で勝利した大日本帝国へ急接近する。わずか数十年にして旧体制から急激な西欧化を果たした日本から様々な知識を取り入れることに成功。当時のドイツ帝国は「3B政策」を行っていたがこれを取り消しにさせ、英国率いる三国協商に接近することになる。
この時、バルカン戦争の際に指導者となったエンヴェル・パシャが「ロシア帝国には散々苦しめられてきた...しかし今はこの帝国が瀕死の病人といわれ、風前の灯火である...もしこの帝国が亡べばそれはイスラームに対する最大の試練であり、混乱のままになるだろう...帝国は必ず生き残らなければならない。それがたとえ敵と手を組もうとも...」と演説を行い、反ロシア派の勢力を抑え込むことに成功する。だが、国内の安定は1916年を待たねばならず、参戦は1917年となった。短い期間ではあったがバルカン戦線で獅子奮迅の活躍を見せ、相応の賠償金などを手に入れることに成功。この勝利が滅亡を回避へ導いたと述べる学者が多い。

2-10.イスラーム世俗主義への変化、国際社会への進出

第一次世界大戦を勝利に終わらせた政府は1920年にメフメト6世と共に改革勅令?を発布する。イスラーム世俗主義を主軸としつつ国家基盤の再構成、英国をモデルにした政治体制への変革などが約束された。この時期に大宰相に就任したムスタファ・ケマル・アタテュルクをトップとして憲法制定会議を設立。1924年に成立したオスマン帝国大憲法?をきっかけとして民間においても世俗主義への移行が進んでいった。並行してオスマン中央銀行?メフメトホールディングスの設立が行われた。だが、当時資源に乏しかったオスマン帝国では農業のモノカルチャー化を食い止めることは不可能であった。だがこれにも転機が訪れる。油田の発見だ。キルクーク油田が1927年に発見されるとそれを輸出するために鉄道や港の整備が進んだほか、国内の経済が活性化していった。1929年に世界恐慌が起こるものの、石油輸出により早々に立て直すことができた。
他国が政情不安から独裁化が進む一方で1932年に第一回オスマン帝国総選挙?が行われ、オスマン帝国議会?が始動する。経済的に安定しつつあったオスマン帝国では1936年から高度経済成長時代へ突入する。そのさなかに第二次世界大戦が勃発し、オスマン帝国は1943年に第三戦線の構築を目的とした英米の参戦要請に答え、枢軸国に宣戦布告する。この宣戦布告は功を奏し、ドイツ支配下の市民からは「メフメト2世がよみがえった」といわれるほどの快進撃で、同年末にはカルパティア山脈まで進軍に成功する。1945年にドイツが降伏するとオスマン帝国は戦勝国となった。

2-11.不況時代、現代へ

戦勝国となったオスマン帝国は1948年から第二次高度経済成長時代へと突入する。この時期になると、ブルガン油田の採掘がはじまり、ガワール油田が発見されており、明るい未来だけが続くと思う国民も多かった。だが、そうとはならなかった。1947年にイノニュ暗殺事件?が勃発する。帝国内に抱えられた最後の一つの火薬。エルサレム問題?を解決するために動いていた当時の宰相、イノニュはイスラム原理主義者によって暗殺されかけてしまう。これにより国民はイスラム原理主義に対し厳しい目線をとるようになり、オスマン帝国内務省特別警備局が設立された。この設立によりテロ活動は沈静化していったが、1977年のエルサレム宣言?を境に過激な主義を持つテロリストが増え始めた。この勢力は現状、他国への攻撃は少ないが、今後もテロ活動を行う可能性が高く非常に注視していかないといけない。

3.経済

オスマン帝国では石油が大量に産出しており、これらを輸出することが一つの大きな産業となっている。また、1980年代になるとITに関する企業が多く設立され、IT先進国の一つとなった。トルコ地域には多くの財閥の本社が位置しており、これらの財閥は自動車を欧州に売却するなどして利益を得ている。
観光名所が多々あり、観光客は年々増加している。また、チョークポイントの一つであるスエズ運河を手中に収めており、そこからの通行料も一定数の収入となっている。
他国に輸出している資源・他国から輸入している資源はオスマン帝国の貿易を参照すべし。

4.外交

多くの国と外交関係がある。個別ページがあるのでそちらを要参照→オスマン帝国の外交関係

5.地方行政区分

1932年の行政区分見直しで一国に値する地域を州とし、その下の地方行政区分を県と名称が変更された。現在オスマン帝国には15州が置かれ、その下に各県が設置されている。オスマン帝国の地方行政区分?も参考にすべし。

6.政治体制

憲法上の国家元首はオスマン家46代当主のメフメト8世?であるが、イギリス式の「王は君臨すれども統治せず」を採用している立憲君主制国家である。
実質上の国家元首となる大宰相はエンドリー・タムスクア?であり、オスマン帝国議会?においては保守系政党のオスマン自由党?が与党となっている。
直近の選挙の結果はオスマン帝国第33回上院総選挙?,オスマン帝国第65回下院総選挙?に詳細が載っている。
現大宰相エンドリー・タムスクア?が構成している宰相内閣はタムスクア内閣?を参照。

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