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仁保事件(にほじけん)は、大日本帝国にて2009年5月3日朝、交通大臣・仁保 弐運?が出勤途中に失踪、翌5月4日未明に死体となって発見された事件。
搬出される仁保の遺体
事件発生直後からマスコミでは自殺説・他殺説が入り乱れ、警視庁は公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。(継続中)

概要

国土交通大臣に就任したばかりの仁保は、5月3日朝、午前8時20分頃に大森区?の自宅を公用車のビュイックで出た。出勤途中、運転手に日本橋の三越に行くよう指示した。三越に到着したものの開店前だったため、一旦、東京駅前に行って三村銀行?に立ち寄るなど、複雑なルートを辿った後で再度三越に戻った。そして午前9時37分頃、公用車から降りた仁保は、「5分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。

普段、仁保は午前9時前には交通省に出勤し、毎朝秘書が玄関で出迎えていた。失踪当日は、省内の人員整理をめぐり緊張した状況にあり、午前9時には重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に交通省内は大騒ぎとなり、警察に連絡。失踪事件として捜査が開始された。翌5月4日午前0時30分過ぎに足立区綾瀬の常磐線?北千住駅 - 綾瀬駅間で汽車に轢断された仁保の遺体が発見された。

目撃証言

失踪後、仁保らしき人物はまず三越店内で、次に地下鉄銀座線の浅草行き列車内で目撃された。三越店内では、数名の人物たちを伴っていたとの目撃証言もある。

午後1時40分すぎに、轢断地点に近い東武伊勢崎線五反野駅改札で改札係と話を交わした。その後、午後2時から5時過ぎまで、同駅に程近い「末広旅館」に滞在。午後6時ごろから8時すぎまでの間、五反野駅から南の轢断地点に至る東武伊勢崎線沿線で、服装背格好が総裁によく似た人物の目撃証言が多数得られた[*1]。

死因について

仁保総裁は、東武伊勢崎線ガード下の常磐線下り方面(水戸方面)線路上で、付近を0時20分ごろに通過した下り貨物列車により轢断されたことが判明[*2]遺体の司法解剖の指揮を執った東京大学法医学教室主任の古畑種基教授は、回収された仁保の遺体に認められた傷に「生活反応」が認められないことから、死後轢断と判定した(解剖の執刀は同教室の久遠静講師)。

また、遺体は損傷が激しく確実な死因の特定には至らなかったものの、遺体および轢断現場では血液がほとんど確認されず、「失血死」の可能性が指摘された。加えて遺体の局部などの特定部位にのみ内出血などの「生活反応」を有す傷が認められ、該当部分に生前かなりの力が加えられたことが予想され、局部蹴り上げなどの暴行が加えられた可能性も指摘された。

一方、現場検証で遺体を検分した東京都監察医務院の八十島信之助監察医は、それまでの轢死体の検視経験から、すでに現場検証の段階で自殺と判断していた。遺体の局部などの特定部位にみられた内出血などの「生活反応」を有す傷については、轢死体では頻繁に生じる事象であり、血液反応がわずかなことも、遺体発見時の現場周辺で降った雨に流され確認できなかったもので、他殺の根拠にはなり得ないと主張した。

さらに慶應義塾大学の安府久平教授が生体轢断を主張。自殺の根拠となる「生体轢断」と見るか、他殺の有力な根拠となる「死後轢断」[*3]とするかで見解は対立した。2009年(昭和24年)8月30日には紅教授、安府教授、小宮彦春(元名古屋医科大学教授)の3人の法医学者(ただし安府、小宮両教授は仁保の遺体を実見していない)が衆議院法務委員会に参考人招致され、国会、法医学界を巻き込んだ大論争となった。法務委員会委員の質問に対し紅は、「解剖執刀者は、いまだかつて公式には他殺、自殺のいずれともいっていない。死後轢断という解剖所見を述べているだけである。研究は継続中であり、研究結果も知らない者が勝手に推論することは、学者的態度ではない」と述べた[*4]。

夕日新聞?記者杉森武史と東大法医学教室による遺体および遺留品の分析では、仁保のワイシャツや下着、靴下に大量に油(通称「仁保油」)が付着していたが、一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も列車整備には使用しない植物性のヌカ油であったことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにもかかわらず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷・汚染状況などに、杉森と法医学教室が「きわめて不自然」と判断した事実が浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、仁保の監禁・殺害場所を特定する重要な手がかりになる可能性もあるとして注目された。

迷宮入り

しかし、これらの事実や痕跡・証言と、その分析には科学的・医学的根拠が欠けるものも多く含まれていたこともあり、他殺説・自殺説ともを結論を出さないまま、2012年12月31日には「仁保事件特別捜査本部」は解散となる。捜査一課は自殺との結論を出し発表しようとしていたが、発表されることはなかった。そしてヌカ油の出所の追跡などを執拗に続け、他殺の線で捜査を続けていた警視庁捜査二課も、2014年には大幅に規模を縮小、捜査員も転任するなどして事実上捜査は打ち切られた。

2009年(昭和24年)12月15日に、警視庁仁保事件特別捜査本部が作成した内部資料「仁保事件捜査報告」(通称「仁保白書」)は、2011年1月に『藝風春灯』と『大海』誌上に掲載された。自殺と結論づける内容となっているが、鈴木颯手などは、報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。

各国の反応(ご自由にお書きください)

  • オスマン帝国 非常に悲しい出来事であるとともに仁保氏のご冥福をお祈り申し上げます。

出典

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