架空国家を作ろうの1.1世界線です

スペイン統治時代

スペイン人の侵略によってアステカ帝国の首都であり中南米の文化の中心地でもあった巨大都市テノチティトランは完全に破壊された。その後跡地にはスペイン式の都市が建設された。それがのちに現在のメキシコシティとなった。メキシコはスペインの「ヌエバ・エスパーニャ副王領」の中心地となり、アステカ、マヤ、カリブ海島嶼のスペイン植民地が編入された。スペイン支配が始まると、スペイン人が持ち込んだ麻疹や天然痘などの疫病、スペイン人による支配者層による搾取的な植民地政策によって、多くの先住民が命を落とした。1546年にサカテカスで銀山が発見されたことを皮切りに、メキシコでは銀ブームが起きた。銀を求めてスペインから多くの開拓者がなだれ込み、現地の人々と交配して混血した人々は「クリオージョ」と呼ばれるようになった。こうして採掘された銀はペルーにあったポトシ鉱山と共にスペイン帝国の歳入を支えた。17世紀になるとクリオージョの地主と先住民の小作人からなる大農園が各地に建設された。18世紀半ばにボルボン朝のカルロス3世によってボルボン改革が進められると、農業開発や手工業が振興され、経済開発が進んだ一方、官僚はスペイン本国出身者によって独占されてしまい、クリオージョやその他の原住民による政治参加は絶望的な状況となった。19世紀初頭にはメキシコは全世界の銀供給量の半分以上を供給していたが、その利益の大半はごくわずかなスペイン本国出身者に占められており、クリオージョ、メスティーソ、インディオ、黒人といった国の大多数の人々はほとんどその恩恵を受けることができず、深刻な貧困に喘いでいた。

独立

各地で勃発する反乱

当時地方都市ドロレスで司教を勤めていたミゲル・イダルゴ・イ・コスティーリャは教会で民衆に呼びかけを行い、「我らがグアダルペの聖母万歳!悪辣な政府と植民者たちに死を!」「Mexicanos, ¡viva México!(メキシコ人、メキシコ万歳!)」の言葉で知られる演説を行った。イダルゴの演説を聞いた群衆は熱狂した。当時のスペイン本国ではフランスのナポレオンの支配に抵抗するスペイン独立戦争が起きており、深刻な混乱のさなかにあった。これをチャンスとして捉えたイダルゴは、群衆を率いてこの地方の中心都市であったグアナフアトに向かって行進した。グアナフアトの鉱山夫たちもドロレスから来た農民や労働者に加わり、グアナフアト中央部に暮らしていた役人や富裕な人々など、彼らに抵抗したスペイン本国出身者は残らず虐殺され、その家財は悉く略奪された。イダルゴ率いる勢力は各地で武器をかき集めると、グアナフアトから一路首都のメキシコシティを目指して進軍し、途中のサカテカス、サン・ルイス・ポトシ、モレリアといった都市を陥落させた。この地でもスペイン本国出身者は皆殺しとなった。しかし独立軍は首都メキシコシティの手前の地方都市モンテ・デ・ラス・クルセスで体勢を立て直した政府軍の精鋭部隊の抵抗にあい、辛くも勝利するものの多大な犠牲を出した。イダルゴは進軍を継続したが、メキシコシティは頑強に守られており、攻略には失敗した。イダルゴは反転してテキサスめがけて北上し、いくつかの勝利を収めてその地に拠点を築いた。翌年、再度メキシコシティを目指し南下を開始するものの、白人全般に対し敵対的な独立軍はメキシコの大多数を占めるクリオージョの恐怖の対象でしかなく、幅広い支持を得るのに失敗していた。3月、独立軍は政府軍の待ち伏せにあって大敗し、現在のコアウイラ州付近で捕虜となった。イダルゴは逮捕され、異端審問所で異端と反逆の罪で有罪となり、死刑を宣告された。1811年7月31日、彼は銃殺された。しかしイダルゴのこの運動は、メキシコ全土での独立運動を活発にさせた。

(反乱を主導したイダルゴ。今日ではメキシコ独立の父として石像が建てられている。)
イダルゴは処刑されたものの、彼の影響を受けた者たちによってメキシコ各地で反乱は相次いでいた。南部で先住民の血を引くカトリックの司祭であったホセ・マリア・テクロ・モレーロスは1812年には武装蜂起の後、南部の広い一帯を支配し、1812年にはオアハカ、1813年にはアカプルコと主要都市を次々に陥落させた。モレーロスの抵抗運動ははっきりとスペインからの独立とメキシコ共和国建設を掲げていて、地元のクリオージョからも広く支持を集めていた。モレーロスの軍は彼自身によって高度に訓練され、規律のある少人数の編成でゲリラ戦を行った。政府軍はこれに大きく苦しめられ、一時は南部のほぼ全域から撤退するに至った。南部のほとんどを支配したモレーロスは1813年、チルパンシンゴに各地の反乱軍の代表を集め議会を開催し独立宣言を発し、さらにその翌年には国民主権、三権分立、奴隷制の廃止、私有財産の保障などの自由主義的内容を盛り込んだメキシコ最初の憲法「アパチンガン憲法」を定めた。しかし1814年にナポレオン戦争がナポレオンの敗北によって終結し、スペイン本国ではフェルナンド7世が国王に返り咲いたこともあって、スペイン本国は反乱に対して本腰を入れて対応を開始した。政府軍の熾烈な掃討戦によってモレーロス軍は敗走し、1815年暮れにはモレーロスが逮捕され、同年12月22日にサン・クリストバル・エカテペクの村で反逆者として銃殺刑になった。

(モレーロスの肖像画)

独立へ

ヌエバエスパーニャ副王は、1820年、武器を捨てた反乱者には残らず恩赦を与えると布告した。内戦の疲れとイダルゴおよびモレーロスという2人のカリスマ的独立指導者の死によって、1820年の初頭までに独立運動は行き詰まりつつあった。イダルゴ軍やモレーロス軍など非正規軍による過剰な暴力は、クリオーリョ、特に富農や大地主のクリオージョの中にあった人種闘争や階級闘争への恐怖を強固にしてしまった。クリオージョらはより流血の少ない方法での独立を模索しつつ、スペイン本国政府の支配を一時的に迎合することを決定した。1820年12月、メキシコ北部で武装蜂起をしていた最後の反乱軍であるビセンテ・ゲレーロ軍に対する政府軍の掃討が開始された。掃討軍の司令官は、王党派のクリオージョであるアグスティン・デ・イトゥルビデだった。彼自身も、より流血の少ない方法でのスペインからの独立を考えていた有力なクリオージョのうちの1人であった。イトゥルビデはモレリア出身のクリオージョで、独立革命の初期にミゲル・イダルゴやホセ・マリア・モレーロスらの独立軍を撃破する成果を収め、副王やその支持者から熱狂的な名声を得ていた。
イトゥルビデの掃討軍がゲレーロ軍が拠点とするオアハカ州へと行軍している間、彼のもとにスペイン本国でフェルナンド7世の独裁政治に対する軍事クーデターの成功の報が入った。この本国でのクーデターの指導者、ラファエル・デル・リエゴは南アメリカの独立運動鎮圧のために国王が編成した遠征軍の指揮を任されたがこの軍ごと反旗を翻し、首都マドリードで自身の軍勢を率いて国王に独裁政治をやめるように強要し、スペインに自由主義が蘇らせたのだった。自由主義運動の成功のニュースがメキシコに届くと、イトゥルビデはこれを、クリオーリョがメキシコの支配権を握る機会であるとみた。イトゥルビデの思い通り、植民地の保守派・王党派クリオージョは母国の自由主義的な臨時政府に対して反抗して立ち上がった。皮肉にもこれがメキシコのスペインからの独立につながった。イトゥルビデはビセンテ・ゲーレロ軍との最初の衝突の後、反乱軍リーダーのゲレロと会談し、新しい独立闘争の原則について論議した。1821年2月24日、イトゥルビデはメキシコのスペインからの独立のための三原則「イグアラ綱領」を発表した。イトゥルビデは彼の率いる軍隊がイグアラ綱領を受け入れたと確信した後、ゲレーロに対し自分の軍隊と合流し、新しい形での独立を提案した。こうしてイアグラ綱領を実現するための新しい軍隊、「三つの保証軍」がイグアラ綱領実現のためイトゥルビデの指揮下動き出した。この計画案は広い支持基盤を持つイトゥビルデとゲレーロの2人の共同制作であったため、王党派も愛国派も自由派も満足するものとなった。イトゥルビデはグアダルーペ・ビクトリアなど各地にいたゲリラ的反乱軍と合流して進軍し、スペイン人王党派と本国の自由主義政府とのつながりを断ち切ることに成功した。1821年8月24日にベラクルス州コルドバで、イトゥルビデと副王との間でイグアラ綱領を確認するコルドバ条約が結ばれ、メキシコの独立が決定した。

(イトゥビルデの肖像画。追放の直前、彼はアグスティン1世として皇帝を名乗ろうとしていた。)

混迷の時代

保守と革新の対立

独立後、イトゥルビデが国家運営に失敗したため、1823年にアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍が共和制を支持して反乱を起こすと、イトゥビルデは失脚して退位し、1824年10月にはメキシコ合衆国憲法が制定されてメキシコは連邦共和国家となった。これは長きにわたるメキシコの政治的準内戦の始まりであった。サンタ・アナが1827年にスペインによる再侵略の可能性に備えてスペイン人の追放政策を実施したため、流通業を担っていたスペイン人がいなくなってメキシコ経済は大混乱し、1827年には最初の債務不履行に追い込まれた。さらにイトゥルビデ追放後も保守派と自由主義派による政権争いが激化した。サンタ・アナは権力掌握の過程で保守派に傾いたため、1829年にかつてイトゥビルデと協力していた自由主義者のビセンテ・ゲレーロがクーデターによって大統領になった。ゲレーロはスペイン人の完全追放、黒人奴隷制廃止、教会財産の接収、キューバの独立の支援など急進的改革を行ったため、国内での反発とメキシコの再植民地化を目指したスペイン軍による再征服を招いた。急遽復帰したサンタ・アナ将軍の活躍によりスペイン軍は撃退されたが、この戦争の結果保守派の影響力が強化され、1830年に1月に保守派のアナスタシオ・ブスタマンテ副大統領が反旗を翻し、ゲレーロは政界から追放された。
メキシコは再び大混乱に陥り、1847年にはユカタン半島のマヤ族が白人支配に反旗を翻してカスタ戦争が勃発した。1853年にはアメリカ合衆国南部出身の海賊ウィリアム・ウォーカーが傭兵を率いて侵略を行い、独自にバハ・カリフォルニア共和国を樹立した。ウォーカーはメキシコでは政府軍に撃退されるが、後にニカラグアを占領し、大統領となった。保守派の大物政治家ルカス・アラマンはこの混乱を収拾できる唯一の人物だと見込んで、サンタ・アナを再びメキシコシティに呼び戻した。サンタ・アナはアラマンとともに事態の収拾に奔走したが、1853年6月にアラマンが死去するとサンタ・アナは独裁者となった。しかし彼の保守的な政策は自由主義者からの反発を生んだ。

(サンタ・アナの肖像画。)
1855年にサンタ・アナが追放され、アルバレスら自由主義者が臨時政府を樹立すると、臨時政府は自由主義に基づいた「レフォルマ」改革を行った。徹底した政教分離による保守勢力の後ろ盾となっていたカトリック教会を政治に口出しできないようにし、フアレス法により司法制度の近代化を図り、先住民を含めた全てのメキシコ人の法の下での平等を実現した。さらに1857年には新憲法を制定した。このレフォルマ改革はメキシコ社会に大きな影響を与え、近代的な価値観がメキシコにもたらされた。しかしその反面、既存の保守派の猛反発と共に共同体コミュニティを失った農民らの保守派への合流をも引き起こし、1856年には全国各地で農民と保守派による大反乱が起きた。
1857年12月1日に新憲法下初の大統領選挙によって自由主義穏健派のコモンフォルトが就任したが、12月17日にスロアガ将軍がクーデターを起こしコモンフォルトは失脚した。しかし、時の最高裁判所長官であったベニート・フアレスのみは保守派への徹底抗戦を誓ってアメリカ合衆国に亡命、軍を募ってベラクルスに上陸して臨時政府を樹立した。フアレスのベラクルス臨時政府は3年に及ぶ長い戦いの末1860年12月25日にメヒコ市を攻略し戦争を終結させたが、内戦の際に膨らんだ有償支援の返済が追いつかなくなり、後の債務不履行に繋がることになった。1861年にメキシコが債務不履行を宣言するとメキシコへ多額の借款を貸し付けていたフランスを中心に連合軍が派遣され、メキシコ全土で激しい戦いが行われた。この戦いで、ポルフィリオ・ディアスが活躍し、結果メキシコは独立を守ることができた。
1857年憲法を軸に新たに打ち建てられた復興共和国では自由主義者が主導権を握ることになったが、自由主義者の中にも文民派と軍人派の二つのグループが存在した。フアレスに代表される文民派は、フアレスを除いて概ね高等教育を受けた白人であり、理想主義的な傾向を有していた。一方、ディアスに代表される軍人派は概ね教育を受けていないメスティーソであり、現実主義的な傾向が強かった。どちらも自由主義者達であり、メキシコの近代化・西欧化を図る点では同じであったが、この差異は近代化政策を実行する際の手段の差になって顕在することになった。
フアレス政権は戦争によって膨張した軍備の削減に努め、大軍縮を実践した。経済面ではメキシコにおける資本主義の発展が目指され、外国資本の導入による国内開発が進んだ。1871年の大統領選挙では現職のフアレス、、フアレスの後輩であった文民派代表のセバスティアン・レルド・デ・テハーダ、フアレスと対立していた軍人派のディアスの3人が立候補し、フアレスが勝利したものの、1872年7月にフアレスが急死したためにレルドが大統領に就任した。しかし、1876年にはディアスがレルドの再選に反対して軍内における圧倒的支持を背景にクーデターを起こした。ディアスはレルドを追放した後の1877年に選挙を行い、大統領に就任した。

(フアレスの肖像。文民派の代表としてメキシコの近代化に貢献した。)

ディアスの平和

ディアスは議会のレルド派や地方のカウディージョに特権を与えて体制に協力させることによって反対意見を封殺して軍事独裁体制を樹立し、自身による統治のみならず、傀儡大統領を据えて中央集権体制を確立することによって、長期にわたってメキシコの政界に大きな影響を与え続けた。ディアスはこのようにして、軍事力を背景にした「ディアスの平和」とも呼ばれることになるメキシコ史上初の長期安定政権を実現した。ディアスは海外企業にメキシコの人件費の安さをアピールし、都市部を重点的に経済開発した。こうしてディアスは経済の発展や治安の回復を実現したが、他方で農村部は大きく疲弊し、労働者は困窮した。外国資本の進出による工業化やプランテーション大農園の成立によって、国民の多くは零細賃金労働者としての厳しい生活を強いられることになった。このため、農民の反乱や労働争議が相次いだが、それらの殆どは軍隊によって弾圧された。軍の大半は、軍縮を進める文民派が大統領に就任することを恐れており、ディアスに忠誠を誓っていた。1892年の鉱山法によって地下資源の国家所有の原則が見直されると外国資本が鉱山開発に殺到し、1910年には国内の鉱山の70%が外国人の所有となり、経済の体質が海外に対して従属的かつ脆弱なものになった。

(ディアスの肖像。その評価は現在でも分かれる。)

マデーロとサバタ

1908年にディアスが1910年の大統領選挙に出馬しないことを表明すると、メキシコ有数の資産家だったフランシスコ・マデーロが「公正な選挙とディアスの再選阻止」を掲げて選挙活動を行い、遂に1910年4月に大統領選挙に立候補したが、投票直前の1910年6月にマデーロは反乱煽動の罪で逮捕され、10月に恩赦によって保釈、そのままアメリカ合衆国に亡命した。マデーロは亡命先のテキサス州で「サンルイス・ポトシ計画」を発表、メキシコの労働者に一斉蜂起を呼びかけた。結果、メキシコ各地でディアスに対する反乱が勃発した。北部ではパンチョ・ビリャが、南部ではエミリアーノ・サパタがそれぞれ農民や労働者と率いて蜂起を行なった。これらの革命勢力の支持を受け、1911年11月の選挙でマデーロは圧倒的な得票で大統領に就任した。しかしマデーロが政権運営を開始するにつれて、革命派内部の路線の違いが明らかになった。特に土地改革を求めるサパタ派は11月25日に「大地主によって強奪された土地は本来権利を有する者に返却されるべき」とする「アヤラ計画」を発表し、メキシコ史上初の農地改革を支配地で実践し、政府と敵対することになった。サバタは「メキシコ社会革命党」を設立、保守派でも自由派でも、文民派でも軍人派でもない第三路線として誕生した社会革命党は急激な支持を集めた。マデーロはサバタがフランスでレーニンと会談している隙に社会革命党へ弾圧を開始し、軍を動員して社会革命党の占領地域へ攻撃を開始した。社会革命党の「労農行動隊」はこれに頑強に抵抗し、各地の農民とともにゲリラ的抵抗を繰り広げた。政府軍の損失が膨大なものになる中、首都では首都警備の任についていた軍を率いてビクトリアーノ・ウエルタが軍事クーデターを引き起こし、マデーロ一派は虐殺された。


(上:マデーロの肖像。ディアスの長期政権を打破した一方、サバタへの弾圧によってその評価は低い。下:サバタの肖像画。彼の設立したメキシコ社会革命党は、のちにメキシコ共産党となる。)

帝政

1912年、ビクトリアーノ・ウエルタ将軍の指揮する軍によって初期の革命派の主要人物の殆どが逮捕され、マデーロ一派は虐殺された。ウエルタはイトゥビルデの信奉者であり、軍人皇帝制を実現させようと考えていた。1913年、ウエルタはメキシコシティでメキシコ社会帝国を建国したと宣言、ビクトリアーノ・ウエルタ1世を名乗った。ウエルタは国内の安定化を図るべく、手始めに南部に軍を指し向けた。12万人の社会帝国軍は、共産主義を警戒する米国の支援を受けて社会革命党支配領域へ進軍した。社会革命党の支配領域では農民が中心となってゲリラ的抵抗を繰り広げたのに対し、社会帝国軍は砲火力の集中により森林を更地に変え、さらに機銃掃射によって掃討することで対応した。1914年、戦争が泥沼化する中、ウエルタはサバタを講和会議に招くと偽ってメキシコシティで謀殺した。これにより、指導者を失った社会革命党は急速に力を失い、軍によって各地で殲滅された。1912年時点では12万人いた党員も、800人まで減少した。党は地下組織として非合法活動によって抵抗をつづけた。
1914年に第一次世界大戦がはじまると、メキシコは当初中立を決め込んだ。ウエルタは英仏などの海外企業を次々と国営化して計画経済を開始、「7年計画」を立案して大々的に軽工業から重工業への転換を進めた。ベラクルス、アカプルコ、カンクンの三箇所には巨大鉄鋼コンビナートが建設され、さらに米国の技術者を招聘して機械製造を推進した。またメキシコ湾の油田開発も積極的に行われ、1918年にはメキシコ湾の石油生産量はテキサス、バクーに次いで世界第三位となった。アメリカ参戦後はツィンマルマン電報を無視して協商側で参戦、軍事物資の発注によってメキシコは特需を迎え、経済成長率は10%を記録した。
1920年になると、ウエルタは軍備拡張政策を推進した。1923年、駆逐艦2隻が就役したのをきっかけに、メキシコの造船能力の大半は軍備拡張に充てられるようになった。1928年には、メキシコ級と名付けられた海防戦艦が進水、1940年までの間、1隻の海防戦艦、1隻の重巡洋艦、8隻の軽巡洋艦、24隻の駆逐艦、60隻以上の潜水艦が建造された。また海軍航空隊の編成にも着手し、アメリカから複数の戦闘機や爆撃機を輸入した。こうして沿岸砲台、機雷、水雷戦隊、航空機部隊を組み合わせたメキシコ湾およびバハカリフォルニア湾を防衛するネットワークが構築された。
一方、こうした軍拡で経済が疲弊したのも事実であり、戦争特需の終結によりメキシコ経済は悪化の一途をたどった。さらに世界恐慌が発生するとアメリカの広大な市場に依存していたメキシコは壊滅的打撃を受け、さらに英仏のブロック経済の影響を受けて深刻な食糧危機が発生した。しかしウエルタはラパスに豪邸を購入する、スポーツカーで別荘内のサーキットを走り回るなど庶民離れした生活を続け、顰蹙を買った。
ウエルタの体制下において、社会革命党はアメリカの共産主義者ジョセフ・マッカーシーによってその理論をより洗練されたものへと変貌させていった。1936年にメキシコにトロツキーが偽名で極秘入国した後はその傾向が顕著であった。トロツキーは党の名前を共産党へと変更し、さらにボリシェヴィズム・レーニン主義(後のトロツキズム)を党のイデオロギーに定め、スターリン主義的な影響を排していった。トロツキーの暗殺を狙って幾度かソ連のNKVDの暗殺者が派遣されたが、トロツキーは幸運に恵まれ、生存し続けた。最も危機的だったのは1941年に秘書のラモン・メルカデルの裏切りによって暗殺されかけた時であった。メルカデルがトロツキーを殺すべく、ピッケルを振り下ろそうとした瞬間、トロツキーの愛人の女性が入室、メルカデルは逃走した。
共産党の活動は当局により徹底的に弾圧されたが、ウエルタ政権に反発する市民層を中心に支持が広まり続けた。1939年にはメキシコシティで社会福祉の充実を要求する共産党系の結社へ軍が発砲、市民1420人が死傷する「死の日曜日事件」が発生した。この事件により保守層からもウエルタの支持は低下し、共産党の勢力はますます拡大した。

メキシコ内戦

レフ・トロツキーの時代

レフ・セドフの時代

エンリケス・ベルグラーノの時代

バルタザール・グランディーンの時代

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