近畿日本鉄道株式会社 Kintetsu Railway Co., Ltd. | |
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種類 | 株式会社 |
略称 | 近鉄 |
本社所在地 | 大阪府大阪市天王寺区? |
設立 | 2014年(平成26年) |
業種 | 陸運業 |
代表者 | 八雲 昌(代表取締役会長) 筒井 正豪(代表取締役社長) |
資本金 | 2億円 |
売上高 | 1700億1250万円 |
営業利益 | 265億5556万円 |
経常利益 | 206億2425万円 |
純利益 | 100億369万円 |
純資産 | 1852億5568万円 |
総資産 | 8885億7223万円 |
主要株主 | 近鉄グループHD 100% |
近畿日本鉄道株式会社(きんきにっぽんてつどう、英: Kintetsu Railway Co., Ltd.)は、近畿地方を中心に広範囲で鉄道事業を行う会社である。大日本帝国の大手私鉄の一つであり、日本旅客鉄道?(NR)を除く日本の鉄道事業者の中では最長の路線網を持つ。近鉄グループホールディングス?(近鉄グループHD)の子会社である。略称は、「近鉄」。
営業している路線のほとんどが近畿地方にあり、近畿日本鉄道を社名としているが、近畿地方ではない尾張県や美濃県にまで及ぶ路線網を有している。近鉄本社や近鉄百貨店などに書かれていた「近鉄」の文字は、1967年3月まで「鉄」を「鉃」にしており、「近鉃」と表記されていた。「金を失う」が「金が矢のように集まる」になるという縁起担ぎが理由であったが、子どもが「鉄」の字を間違って覚えてしまうと沿線住民などから指摘され、正式な表記に直している。
営業している路線のほとんどが近畿地方にあり、近畿日本鉄道を社名としているが、近畿地方ではない尾張県や美濃県にまで及ぶ路線網を有している。近鉄本社や近鉄百貨店などに書かれていた「近鉄」の文字は、1967年3月まで「鉄」を「鉃」にしており、「近鉃」と表記されていた。「金を失う」が「金が矢のように集まる」になるという縁起担ぎが理由であったが、子どもが「鉄」の字を間違って覚えてしまうと沿線住民などから指摘され、正式な表記に直している。
1910年(明治43年)に大阪と奈良の都市間輸送を目的に奈良軌道が設立された。しかし、その後まもなく大阪電気軌道に改称した。
当時、阪奈間を結ぶ鉄道は、二つの経路があり、どちらも旧関西鉄道の路線で、国有化されていた(関西本線・片町線)。しかし、その二路線は生駒山地を迂回するものであり、これを横断し、短絡する鉄道が計画されていた。
しかし、建設は困難を極めた。当時、東京を凌ぐ世界有数の大都市である大商工業都市大阪に加えて、国際貿易港神戸を擁する阪神電鉄や阪神急行電鉄に対し、奈良は都市としての規模が小さく、沿線人口の上でも大きな開きがあった。
また、平野部に路線を敷設するのに対して、生駒山脈の天険を越えなければならない大阪電気軌道の路線は、当時の技術としては開業が困難な区間であった。
大阪電気軌道の経路選定にあたっては、測量設計などを請け負う鉄道工務所に調査を依頼し、三つの経路が提案された。費用を抑えるため、生駒山地に鋼索鉄道を敷設して通過するという案も出されたが、高速都市間輸送としての機能が失われることから、多くの非難を受けた。
結局、このうち最も短絡性に優れた長距離トンネル(生駒隧道)を掘削するという経路に決定した。
生駒隧道は延長3,388mで、国鉄中央本線の笹子トンネルに次いで当時の日本二番目の長さであり、掘削工事は困難をきわめた。
この工事は大林組が請け負い、1911年(明治44年)に着工された。
まず、米国から最新式のライナー削岩機と、150馬力エアコンプレッサーを購入し、導坑掘削に着手した。
掘削が進むにつれ、次第に地質が悪くなり、岩石と粘土の混合した軟弱地盤が多く、地下水の湧出にも悩まされて、予想外の難工事となった。電力の供給も不十分で、工事を遅らせる原因となり、ある時は1カ月に30センチという進行状態であった。
1913年(大正2年)には大規模な岩盤崩落により、坑内で約150人が生埋めになる事故が発生し、19人が犠牲となるなど、苦難の連続となった。大阪電気軌道は、資本金300万円、社債300万円のうち、生駒隧道の工事だけで270万円の費用がかかり、「大軌危うし」と言われるまでもなった。
そんな中、1914年(大正3年)に大阪の上本町駅 - 奈良駅間を開業させた。
しかし、生駒トンネル掘削の難工事により、建設費が予想額を超え、その工面に窮した大阪電気軌道は、沿線の生駒聖天から賽銭を借りて経費を賄うほどになった。頼みの綱であった大阪と奈良の都市間輸送も振るわず、主要な旅客であった生駒山参詣者の人出がお天気次第なので運賃収入もお天気次第、という意味で「大阪天気軌道」、経営状況が空気のように頼りないことから「大気」、と揶揄されたこともあった。
経営が安定化したのは、1916年(大正5年)以降で、第一次世界大戦に伴う好景気により乗客数と運賃収入は好調に伸びたことで、債務整理を完了したことにより経営難を乗り越えることができた。
当時、阪奈間を結ぶ鉄道は、二つの経路があり、どちらも旧関西鉄道の路線で、国有化されていた(関西本線・片町線)。しかし、その二路線は生駒山地を迂回するものであり、これを横断し、短絡する鉄道が計画されていた。
しかし、建設は困難を極めた。当時、東京を凌ぐ世界有数の大都市である大商工業都市大阪に加えて、国際貿易港神戸を擁する阪神電鉄や阪神急行電鉄に対し、奈良は都市としての規模が小さく、沿線人口の上でも大きな開きがあった。
また、平野部に路線を敷設するのに対して、生駒山脈の天険を越えなければならない大阪電気軌道の路線は、当時の技術としては開業が困難な区間であった。
大阪電気軌道の経路選定にあたっては、測量設計などを請け負う鉄道工務所に調査を依頼し、三つの経路が提案された。費用を抑えるため、生駒山地に鋼索鉄道を敷設して通過するという案も出されたが、高速都市間輸送としての機能が失われることから、多くの非難を受けた。
結局、このうち最も短絡性に優れた長距離トンネル(生駒隧道)を掘削するという経路に決定した。
生駒隧道は延長3,388mで、国鉄中央本線の笹子トンネルに次いで当時の日本二番目の長さであり、掘削工事は困難をきわめた。
この工事は大林組が請け負い、1911年(明治44年)に着工された。
まず、米国から最新式のライナー削岩機と、150馬力エアコンプレッサーを購入し、導坑掘削に着手した。
掘削が進むにつれ、次第に地質が悪くなり、岩石と粘土の混合した軟弱地盤が多く、地下水の湧出にも悩まされて、予想外の難工事となった。電力の供給も不十分で、工事を遅らせる原因となり、ある時は1カ月に30センチという進行状態であった。
1913年(大正2年)には大規模な岩盤崩落により、坑内で約150人が生埋めになる事故が発生し、19人が犠牲となるなど、苦難の連続となった。大阪電気軌道は、資本金300万円、社債300万円のうち、生駒隧道の工事だけで270万円の費用がかかり、「大軌危うし」と言われるまでもなった。
そんな中、1914年(大正3年)に大阪の上本町駅 - 奈良駅間を開業させた。
しかし、生駒トンネル掘削の難工事により、建設費が予想額を超え、その工面に窮した大阪電気軌道は、沿線の生駒聖天から賽銭を借りて経費を賄うほどになった。頼みの綱であった大阪と奈良の都市間輸送も振るわず、主要な旅客であった生駒山参詣者の人出がお天気次第なので運賃収入もお天気次第、という意味で「大阪天気軌道」、経営状況が空気のように頼りないことから「大気」、と揶揄されたこともあった。
経営が安定化したのは、1916年(大正5年)以降で、第一次世界大戦に伴う好景気により乗客数と運賃収入は好調に伸びたことで、債務整理を完了したことにより経営難を乗り越えることができた。
大阪電気軌道の経営が軌道に乗ると、主に奈良盆地を中心に経営基盤を拡大することとなり、西大寺駅から南進して橿原神宮に至る、畝傍線の計画を立てた。大阪電気軌道に対し認可の条件として天理軽便鉄道および大和鉄道に対する補償または買収を義務づけられていた。
結局、天理軽便鉄道・大和鉄道を買収することにし、天理軽便鉄道については1921年(大正10年)に合併して同社の天理線・法隆寺線としたが、大和鉄道については、なかなか経営権を押さえることができずにいた。大和鉄道を傘下に置くのは1924年(大正13年)のことであった。
一方、奈良盆地から信貴山に至る路線の開業は、東側からの信貴生駒電気鉄道によって果たされていたが、1930年(昭和5年)に大阪電気軌道信貴線として、山本駅 - 信貴山口駅間を開業させ、大軌傍系会社の信貴山電鉄が信貴山口・高安山・信貴山門間を開業した。
これにより、西側からの信貴山参拝客は信貴線に流れ、乗客が減少した信貴生駒電鉄は大軌の系列に入ることとなる。
また、吉野方面では、吉野鉄道を合併、吉野線とし、京阪電気鉄道(京阪)との共同出資で奈良電気鉄道(奈良電)を設立同社との相互乗り入れ運転を行う、などの積極策を採った。
結局、天理軽便鉄道・大和鉄道を買収することにし、天理軽便鉄道については1921年(大正10年)に合併して同社の天理線・法隆寺線としたが、大和鉄道については、なかなか経営権を押さえることができずにいた。大和鉄道を傘下に置くのは1924年(大正13年)のことであった。
一方、奈良盆地から信貴山に至る路線の開業は、東側からの信貴生駒電気鉄道によって果たされていたが、1930年(昭和5年)に大阪電気軌道信貴線として、山本駅 - 信貴山口駅間を開業させ、大軌傍系会社の信貴山電鉄が信貴山口・高安山・信貴山門間を開業した。
これにより、西側からの信貴山参拝客は信貴線に流れ、乗客が減少した信貴生駒電鉄は大軌の系列に入ることとなる。
また、吉野方面では、吉野鉄道を合併、吉野線とし、京阪電気鉄道(京阪)との共同出資で奈良電気鉄道(奈良電)を設立同社との相互乗り入れ運転を行う、などの積極策を採った。
大軌は、伊勢方面への進出を画策し、当初は高見峠経由のルートが検討されていたが、のちに沿線人口が多い初瀬・名張経由での計画に変更された。
大軌は、1920年(大正9年)に八木線の終点となる高市郡八木町から伊勢神宮がある宇治山田市に至る路線を出願し、伊勢方面への進出に動き出した。このころ、伊勢方面への路線は競願状態となっており、大軌は免許を取得することができなかった。しかし、大和鉄道が桜井・名張間の免許を得ていたため、大軌は、同社の免許を手中に収めるため、1924年(大正13年)に大和鉄道を傘下に編入した。その後、大和鉄道を通じて名張・山田間を出願し、免許を取得した。また、大軌でも同時に、空白区間であった八木・桜井間の免許を取得し、同区間(桜井線)は1929年(昭和4年)に開業した。
桜井・山田間の敷設工事は新会社に委ねることとし、1927年(昭和2年)に「参宮急行電鉄株式会社」(参急)が設立され、社長には大軌の金森社長が就任し、大和鉄道が取得していた免許を譲受した。
同区間において最大の難所とされていたのは、単線で延長3,432mの青山隧道掘削工事で、多くの犠牲を出しながらも完了し、1930年(昭和5年)には全線が開業した。
参急の車両は2200系電車を投入した。2200系は、新鋭の半鋼製電車で、長距離運用のため、電動車と制御車の車端にトイレを設け、青山隧道付近の30‰を超える連続勾配を走行するため、150kWの大容量の主電動機を使用し、電気制動を備えており、上本町・宇治山田間を2時間程度で結んだ。
また、名古屋進出への布石として、一志郡戸木村((現)津市)から桑名駅付近に至る区間の免許を取得したほか、中勢鉄道を傘下に置き、中川・久居間の免許を譲受した。
この間、大軌は、参急線途中の名張 - 伊賀神戸間で路線が並行していた伊賀電気鉄道を合併し、1931年(昭和6年)に参急へ移管した。また、桜井 - 初瀬間の短い路線を有していた長谷軌道も、並行線のため1928年(昭和3年)に買収して大軌長谷線とした。
大軌は、1920年(大正9年)に八木線の終点となる高市郡八木町から伊勢神宮がある宇治山田市に至る路線を出願し、伊勢方面への進出に動き出した。このころ、伊勢方面への路線は競願状態となっており、大軌は免許を取得することができなかった。しかし、大和鉄道が桜井・名張間の免許を得ていたため、大軌は、同社の免許を手中に収めるため、1924年(大正13年)に大和鉄道を傘下に編入した。その後、大和鉄道を通じて名張・山田間を出願し、免許を取得した。また、大軌でも同時に、空白区間であった八木・桜井間の免許を取得し、同区間(桜井線)は1929年(昭和4年)に開業した。
桜井・山田間の敷設工事は新会社に委ねることとし、1927年(昭和2年)に「参宮急行電鉄株式会社」(参急)が設立され、社長には大軌の金森社長が就任し、大和鉄道が取得していた免許を譲受した。
同区間において最大の難所とされていたのは、単線で延長3,432mの青山隧道掘削工事で、多くの犠牲を出しながらも完了し、1930年(昭和5年)には全線が開業した。
参急の車両は2200系電車を投入した。2200系は、新鋭の半鋼製電車で、長距離運用のため、電動車と制御車の車端にトイレを設け、青山隧道付近の30‰を超える連続勾配を走行するため、150kWの大容量の主電動機を使用し、電気制動を備えており、上本町・宇治山田間を2時間程度で結んだ。
また、名古屋進出への布石として、一志郡戸木村((現)津市)から桑名駅付近に至る区間の免許を取得したほか、中勢鉄道を傘下に置き、中川・久居間の免許を譲受した。
この間、大軌は、参急線途中の名張 - 伊賀神戸間で路線が並行していた伊賀電気鉄道を合併し、1931年(昭和6年)に参急へ移管した。また、桜井 - 初瀬間の短い路線を有していた長谷軌道も、並行線のため1928年(昭和3年)に買収して大軌長谷線とした。
昭和初頭では、金融恐慌ののち、昭和恐慌が発生した。恐慌に伴う経営危機から脱出を図るため、各企業で合理化が進められ、企業の統合が活発化した。大阪電気軌道(大軌)および参宮急行電鉄(参急)は、1931年(昭和6年)に上本町・宇治山田間の直通運転を開始し、名古屋への進出を目指した。参急は、参急中川駅から北へ路線を延伸し、翌年に安濃津駅までの開業を果たした。その先には伊勢電気鉄道があったが、同社は経営の悪化から整理問題へと発展したため、参急が同社の経営に関与し、1936年(昭和11年)に伊勢電気鉄道を合併する。
大軌は、伊勢電が計画して果たせなかった名古屋進出に乗り出すために子会社の関西急行電鉄(関急電)を設立した。
既に免許は有していたが、技術・資金の両面で困難な木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)への架橋が桑名 - 名古屋間路線建設の最大の難所となっていた。並行する省線関西本線の橋梁架け替えに伴う廃鉄橋譲受という奇策で難所を乗り越え、1938年(昭和13年)、名古屋駅地下に新設された関急名古屋駅(現・近鉄名古屋駅)に乗り入れ、桑名 - 名古屋間を全通させた。
名阪間が初めて私鉄により結ばれたものの、大軌・参急の路線が標準軌、旧・伊勢電気鉄道の路線が狭軌となっていたため、江戸橋駅での乗換えが必要であったため、参急中川・江戸橋間を標準軌から狭軌に改め、参急中川・関急名古屋間の直通運転が可能とし、参急中川駅を乗り換え駅とすることで効率化を図った。
旧伊勢電本線は、参急名古屋伊勢本線となるも、既存の宇治山田線などと並行していたため、神都交通に移管。その後、京阪資本の名古屋急行電鉄?が目をつけ、買収されることとなる。
そして、周辺の有力私鉄が合併していく中、大軌グループである大阪電気軌道(大軌)、参宮急行電鉄(参急)、関西急行電鉄(関急)、大阪鉄道(大鉄)などが合併することとなる。そして、史上最大の私鉄である「近畿日本鉄道」が誕生した。
大軌は、伊勢電が計画して果たせなかった名古屋進出に乗り出すために子会社の関西急行電鉄(関急電)を設立した。
既に免許は有していたが、技術・資金の両面で困難な木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)への架橋が桑名 - 名古屋間路線建設の最大の難所となっていた。並行する省線関西本線の橋梁架け替えに伴う廃鉄橋譲受という奇策で難所を乗り越え、1938年(昭和13年)、名古屋駅地下に新設された関急名古屋駅(現・近鉄名古屋駅)に乗り入れ、桑名 - 名古屋間を全通させた。
名阪間が初めて私鉄により結ばれたものの、大軌・参急の路線が標準軌、旧・伊勢電気鉄道の路線が狭軌となっていたため、江戸橋駅での乗換えが必要であったため、参急中川・江戸橋間を標準軌から狭軌に改め、参急中川・関急名古屋間の直通運転が可能とし、参急中川駅を乗り換え駅とすることで効率化を図った。
旧伊勢電本線は、参急名古屋伊勢本線となるも、既存の宇治山田線などと並行していたため、神都交通に移管。その後、京阪資本の名古屋急行電鉄?が目をつけ、買収されることとなる。
そして、周辺の有力私鉄が合併していく中、大軌グループである大阪電気軌道(大軌)、参宮急行電鉄(参急)、関西急行電鉄(関急)、大阪鉄道(大鉄)などが合併することとなる。そして、史上最大の私鉄である「近畿日本鉄道」が誕生した。
伊勢では、参宮鉄道や関西鉄道があり、やがて国有化されたが、沿岸部は鉄道空白地帯であった。安濃津と四日市を線路で結ぼうと計画した。当初、安濃津と四日市よりも安濃津と歩兵第33連隊のある久居に鉄道を敷いたほうがよいとして、1908年(明治41年)に伊勢軽便鉄道を設立しまもなく合併して大日本軌道伊勢支社となった。(のちに中勢鉄道となる)この軌道の経営は順調であった。
しかし、地元の資産家たちは安濃津と四日市を結ぶ鉄道を断念したわけではなく、1909年(明治42年)に伊勢軌道として出願した。
これは却下されるが、翌年の軽便鉄道法の公布により、1911年(明治44年)に伊勢鉄道として出願し、免許状が下付される。
1915年(大正4年)に一身田町 - 白子間を部分開業し、区間開業を重ね、1924年(大正13年)に安濃津 - 四日市間が開業し、当初の計画は達成した。
また、当初から直流1,500V電化による高規格な電化工事が開始され、1926年(大正15年)には社名を伊勢電気鉄道と改称し、南での伊勢神宮、北での桑名への路線延長、養老電気鉄道の合併など、路線網拡大を進める。
伊勢電気鉄道ハ451形電車
しかし、地元の資産家たちは安濃津と四日市を結ぶ鉄道を断念したわけではなく、1909年(明治42年)に伊勢軌道として出願した。
これは却下されるが、翌年の軽便鉄道法の公布により、1911年(明治44年)に伊勢鉄道として出願し、免許状が下付される。
1915年(大正4年)に一身田町 - 白子間を部分開業し、区間開業を重ね、1924年(大正13年)に安濃津 - 四日市間が開業し、当初の計画は達成した。
また、当初から直流1,500V電化による高規格な電化工事が開始され、1926年(大正15年)には社名を伊勢電気鉄道と改称し、南での伊勢神宮、北での桑名への路線延長、養老電気鉄道の合併など、路線網拡大を進める。
伊勢電気鉄道ハ451形電車
東海道線が開通して大垣駅が出来ると、四日市の井島茂作を中心に桑名、 四日市や美濃県の人たちが出資した養老鉄道が計画され、 1897年(明治30年)に仮免状が下付された。
しかし、揖斐川、牧田川、水門川の舟運が盛んであったこと、当時の不況からしばらく建設の目処が立たなかった。
1911年(明治44年)、井島は、大師電気鉄道の創業者で大垣出身の立川勇次郎に養老鉄道建設に参画するよう依頼し、立川が社長となり「養老鉄道株式会社」を設立。1913年(大正2年)には養老 - 大垣 - 池野間が開業することとなった。そして、桑名 - 養老間、池野 - 揖斐間は1916年(大正5年)に着工したが、第一次世界大戦勃発の影響で資材が高騰したため、工事が遅れ1919年(大正8年)に全線開通となった。
次に電化計画を立て、立川が社長を務めていた揖斐川電気より電気の供給を受けることに決定した。
そこで経費削減のため、1922年(大正11年)に養老鉄道を揖斐川電気へ合併し揖斐川電気鉄道部とした。立川は養老鉄道の電化に注力し、1923年(大正12年)に全線電化した。
1925年(大正14年)に鉄道事業の推進役であった立川が死亡した。揖斐川電気は、鉄道の電化による投資が負担となっており経営方針は転換されー新線建設を断念。1926年(大正15年)には、やっと取得した桑名-四日市間の鉄道敷設権を伊勢電気鉄道に譲渡する。
その後、揖斐川電気は経営不振となったが、伊勢電気鉄道社長・熊澤一衛が1928年(昭和3年)に養老電気鉄道を設立し、揖斐川電気より鉄道事業を譲受した。その後、桑名 - 四日市間を1929年(昭和4年)に開業させた伊勢電気鉄道は、同年に養老電気鉄道を合併した。
しかし、揖斐川、牧田川、水門川の舟運が盛んであったこと、当時の不況からしばらく建設の目処が立たなかった。
1911年(明治44年)、井島は、大師電気鉄道の創業者で大垣出身の立川勇次郎に養老鉄道建設に参画するよう依頼し、立川が社長となり「養老鉄道株式会社」を設立。1913年(大正2年)には養老 - 大垣 - 池野間が開業することとなった。そして、桑名 - 養老間、池野 - 揖斐間は1916年(大正5年)に着工したが、第一次世界大戦勃発の影響で資材が高騰したため、工事が遅れ1919年(大正8年)に全線開通となった。
次に電化計画を立て、立川が社長を務めていた揖斐川電気より電気の供給を受けることに決定した。
そこで経費削減のため、1922年(大正11年)に養老鉄道を揖斐川電気へ合併し揖斐川電気鉄道部とした。立川は養老鉄道の電化に注力し、1923年(大正12年)に全線電化した。
1925年(大正14年)に鉄道事業の推進役であった立川が死亡した。揖斐川電気は、鉄道の電化による投資が負担となっており経営方針は転換されー新線建設を断念。1926年(大正15年)には、やっと取得した桑名-四日市間の鉄道敷設権を伊勢電気鉄道に譲渡する。
その後、揖斐川電気は経営不振となったが、伊勢電気鉄道社長・熊澤一衛が1928年(昭和3年)に養老電気鉄道を設立し、揖斐川電気より鉄道事業を譲受した。その後、桑名 - 四日市間を1929年(昭和4年)に開業させた伊勢電気鉄道は、同年に養老電気鉄道を合併した。
勢いに乗った伊勢電気鉄道は、桑名以北では名古屋への乗り入れを計画したが、世界恐慌の影響や過剰投資、労使紛争なども生じて経営破綻状態となってしまう。さらに、既に1897年(明治30年)から国鉄参宮線があったこと、同年には、大阪電気軌道(大軌)・参宮急行電鉄(参急)の路線も開業していたこともあり、伊勢神宮付近の区間は熾烈な競合区間となる。資本力で国鉄や参急に劣る伊勢電気鉄道は、利用客が伸び悩み、名古屋への進出を目論んでいた参急が伊勢電気鉄道を買収した。
その後、参急も同系列の大阪電気軌道(大軌)や大阪鉄道(大鉄)などと合併し、近畿日本鉄道が誕生し、名古屋線や伊勢線、岐阜線などとなる。
その後、参急も同系列の大阪電気軌道(大軌)や大阪鉄道(大鉄)などと合併し、近畿日本鉄道が誕生し、名古屋線や伊勢線、岐阜線などとなる。
河内には既に大阪鉄道(初代で後の関西本線?となる鉄道)があったが、南河内には鉄道がなく、南河内を縦貫する鉄道が計画された。
後に衆議院議員も勤めることとなる南河内出身の出水彌太郎が中心となり、柏原駅から石川郡富田林村を経由して錦部郡三日市村へと至る経路で鉄道敷設を出願し、1896年(明治29年)には本免許を取得。そして、「河陽鉄道株式会社」が設立され、社長に出水彌太郎氏が就任した。
した。
「河陽鉄道」の「河陽」は、河陽鉄道は開業時に大和川北岸への延伸を意図しており、中国では古くから黄河の北の地域を示す地名で、そこから「河の北」の意を持つ「河陽」が用いられた。
また、別説では、「河陽」は河内の美称であるともされる。
河陽鉄道の建設計画は、第1期区間(柏原−道明寺−古市)、第2期区間(古市−富田林)、第3期区間(富田林−長野)に分けられ、すぐに着工に入った。
に工事が始められました。そのうち、1898年(明治31年)に第1期区間である柏原−古市間の営業が開始した。
河陽鉄道は軌間1,067mmの狭軌を採用しているが、これは、もともと河陽鉄道は前述の大阪鉄道の柏原駅と結び、直通運行による大阪市への乗り入れを目指して計画されたため、大阪鉄道と同じ狭軌で建設されたことによる。
第1期区間の営業開始の翌月には、 第2期の古市−富田林間が 開業するが、もともと沿線人口が少ないこともあり、旅客収入が少なく、河陽鉄道は早くも経営危機に陥ってしまった。会社更生案が検討された結果、別の新会社を設立して河陽鉄道から全ての設備を買い受けるかたちで再編することとなった。
1899年(明治32年)に河陽鉄道から新会社へ設備が売却され、新会社「河南鉄道株式会社」の創立総会が開催され、河陽鉄道はわずか設立3年で解散することとなった。
後に衆議院議員も勤めることとなる南河内出身の出水彌太郎が中心となり、柏原駅から石川郡富田林村を経由して錦部郡三日市村へと至る経路で鉄道敷設を出願し、1896年(明治29年)には本免許を取得。そして、「河陽鉄道株式会社」が設立され、社長に出水彌太郎氏が就任した。
した。
「河陽鉄道」の「河陽」は、河陽鉄道は開業時に大和川北岸への延伸を意図しており、中国では古くから黄河の北の地域を示す地名で、そこから「河の北」の意を持つ「河陽」が用いられた。
また、別説では、「河陽」は河内の美称であるともされる。
河陽鉄道の建設計画は、第1期区間(柏原−道明寺−古市)、第2期区間(古市−富田林)、第3期区間(富田林−長野)に分けられ、すぐに着工に入った。
に工事が始められました。そのうち、1898年(明治31年)に第1期区間である柏原−古市間の営業が開始した。
河陽鉄道は軌間1,067mmの狭軌を採用しているが、これは、もともと河陽鉄道は前述の大阪鉄道の柏原駅と結び、直通運行による大阪市への乗り入れを目指して計画されたため、大阪鉄道と同じ狭軌で建設されたことによる。
第1期区間の営業開始の翌月には、 第2期の古市−富田林間が 開業するが、もともと沿線人口が少ないこともあり、旅客収入が少なく、河陽鉄道は早くも経営危機に陥ってしまった。会社更生案が検討された結果、別の新会社を設立して河陽鉄道から全ての設備を買い受けるかたちで再編することとなった。
1899年(明治32年)に河陽鉄道から新会社へ設備が売却され、新会社「河南鉄道株式会社」の創立総会が開催され、河陽鉄道はわずか設立3年で解散することとなった。
河南鉄道は、河陽鉄道から買い受けた柏原−富田林間の運輸営業を再開したが、依然として経営は厳しかった。状況を打開するため、大阪鉄道との競争力強化のために大阪都市部への進出や経済活動で関係の深い堺への進出することなどを図ったり、第3期区間である富田林−長野間の建設が進められた。
富田林−長野間の建設は、すでに汐見橋−長野間を開業していた高野鉄道と長野駅で接続することを目的としており、1901年(明治34年)に着工し、翌年には富田林−滝谷不動間 、滝谷不動−長野間が延伸開業し、当初計画の柏原−長野が実現した。
大阪都市部の進出は、免許取得がなかなかできず、実現は大阪鉄道となるまで待つこととなる。
河南鉄道は、遊園地経営にも進出し、1908年(明治41年)に南河内郡玉手村に、「玉手山遊園」を開業させた。西日本で初めて開設された「遊園地」で、その後も近畿日本鉄道に至るまで営業が継続されていき、1998年に閉園されるまで、西日本最古の遊園地として名を馳せた。閉園後、遊園として柏原市が引き継いで運営することになり、「柏原市立玉手山公園」として運営されている。
富田林−長野間の建設は、すでに汐見橋−長野間を開業していた高野鉄道と長野駅で接続することを目的としており、1901年(明治34年)に着工し、翌年には富田林−滝谷不動間 、滝谷不動−長野間が延伸開業し、当初計画の柏原−長野が実現した。
大阪都市部の進出は、免許取得がなかなかできず、実現は大阪鉄道となるまで待つこととなる。
河南鉄道は、遊園地経営にも進出し、1908年(明治41年)に南河内郡玉手村に、「玉手山遊園」を開業させた。西日本で初めて開設された「遊園地」で、その後も近畿日本鉄道に至るまで営業が継続されていき、1998年に閉園されるまで、西日本最古の遊園地として名を馳せた。閉園後、遊園として柏原市が引き継いで運営することになり、「柏原市立玉手山公園」として運営されている。
1919年(大正8年)に河南鉄道は大阪市内への乗り入れを目指して「大阪鉄道株式会社」と社名を変更した。(なお、初代大阪鉄道(現関西本線?)との資本関係はない別会社)
河南鉄道時代は、柏原からの大阪市内乗り入れを計画していたが、これを諦めて、道明寺−大阪天王寺間の鉄道敷設免許申請を行った。しかし、道明寺の西方には大型前方後円墳や大規模神社などが存在していて、ルートは変則的なものにならざるを得ず、道明寺から分岐して藤井寺や河内松原方面へ進むためには、急カーブで仲津山陵の北側を迂回することとなった。大阪鉄道となる前年にようやくこの敷設免許状が下付され、1921年(大正10年)、道明寺−大阪天王寺間鉄道敷設工事の起工式が道明寺天満宮で行われた。翌年には、道明寺−布忍間の線路工事が完成し、旅客輸送営業が開始された。
1923年(大正12年)には 布忍−大阪天王寺間の線路工事も完成し、全通した。
デロ20形電車
また、各路線の電化も完了し、大阪鉄道は東方へ目を向け、大和延長線の実現に向けて進んでいった。
大和延長線は、大鉄本線を久米寺まで延伸して吉野鉄道と接続し吉野への直通運転を行うという構想であった。
そこで、南大阪電気鉄道が持っていた敷設免許を譲受しようとしたが、敷設免許の譲渡が許可されず、1926年(大正15年)に南大阪電気鉄道を合併することとなった。
大和延長線建設のために増資を決定するが、引き受けが難航したところ、残りをすべて引き受けて持株比率14.6%の大株主となったのが、大阪電気軌道株式会社(大軌)であった。
1927(昭和2年)、大阪鉄道は大和延長線の起工式を行い、1929年(昭和4年)、大和延長線が開通し、同時に吉野鉄道の区間も含めた大阪阿部野橋−吉野間の直通運転も開始され、新・大鉄本線が誕生した。道明寺から分岐して大阪市内へ向かう新線は、西へ大きく曲がる急カーブとなっていたが、大和延長線は古市から分岐して東へ大きく曲がる急カーブとなっていた。その結果、新・大鉄本線は、「Z形カーブ」、「逆S字カーブ」と呼ばれるような路線形を描くことになった。
この頃、大阪鉄道は住宅分譲、乗合自動車事業など兼営事業の拡大を進め、積極的投資を行っていた。また、後に近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)の本拠地となる藤井寺球場を経営するほか、自然体験学習施設の藤井寺教材園を開園した。これらは、「藤井寺経営地計画」の一環で駅前に広がる高級分譲住宅地とスポーツ・文化施設を組み合わせた約10万坪にも及ぶ大事業であった。住宅地に隣接してこうした施設を設けるコンセプトは、「藤井寺経営地」の計画を構想した造園学者の大屋霊城の理想を強く反映したものであった。
しかし、勢いに乗っていた大阪鉄道は、久米寺駅から桜井を経て宇治山田に至る路線構想を有しており、伊勢への延伸計画は重複する大阪電気軌道(大軌)にとっては脅威かつ邪魔なものでしかなく、資本力に勝っていた大軌は大鉄を本気で潰しにかかることになる。この後、恐慌に苦境に陥った大鉄に対し大軌は株式を買い集め始め圧力をかけるが、大鉄に救済の手をさしのべる会社はなく、ついには大軌が大鉄の過半の株式を持つに至り、旧経営陣は追放され大鉄は大軌の系列下に組み込まれた。
河南鉄道時代は、柏原からの大阪市内乗り入れを計画していたが、これを諦めて、道明寺−大阪天王寺間の鉄道敷設免許申請を行った。しかし、道明寺の西方には大型前方後円墳や大規模神社などが存在していて、ルートは変則的なものにならざるを得ず、道明寺から分岐して藤井寺や河内松原方面へ進むためには、急カーブで仲津山陵の北側を迂回することとなった。大阪鉄道となる前年にようやくこの敷設免許状が下付され、1921年(大正10年)、道明寺−大阪天王寺間鉄道敷設工事の起工式が道明寺天満宮で行われた。翌年には、道明寺−布忍間の線路工事が完成し、旅客輸送営業が開始された。
1923年(大正12年)には 布忍−大阪天王寺間の線路工事も完成し、全通した。
デロ20形電車
また、各路線の電化も完了し、大阪鉄道は東方へ目を向け、大和延長線の実現に向けて進んでいった。
大和延長線は、大鉄本線を久米寺まで延伸して吉野鉄道と接続し吉野への直通運転を行うという構想であった。
そこで、南大阪電気鉄道が持っていた敷設免許を譲受しようとしたが、敷設免許の譲渡が許可されず、1926年(大正15年)に南大阪電気鉄道を合併することとなった。
大和延長線建設のために増資を決定するが、引き受けが難航したところ、残りをすべて引き受けて持株比率14.6%の大株主となったのが、大阪電気軌道株式会社(大軌)であった。
1927(昭和2年)、大阪鉄道は大和延長線の起工式を行い、1929年(昭和4年)、大和延長線が開通し、同時に吉野鉄道の区間も含めた大阪阿部野橋−吉野間の直通運転も開始され、新・大鉄本線が誕生した。道明寺から分岐して大阪市内へ向かう新線は、西へ大きく曲がる急カーブとなっていたが、大和延長線は古市から分岐して東へ大きく曲がる急カーブとなっていた。その結果、新・大鉄本線は、「Z形カーブ」、「逆S字カーブ」と呼ばれるような路線形を描くことになった。
この頃、大阪鉄道は住宅分譲、乗合自動車事業など兼営事業の拡大を進め、積極的投資を行っていた。また、後に近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)の本拠地となる藤井寺球場を経営するほか、自然体験学習施設の藤井寺教材園を開園した。これらは、「藤井寺経営地計画」の一環で駅前に広がる高級分譲住宅地とスポーツ・文化施設を組み合わせた約10万坪にも及ぶ大事業であった。住宅地に隣接してこうした施設を設けるコンセプトは、「藤井寺経営地」の計画を構想した造園学者の大屋霊城の理想を強く反映したものであった。
しかし、勢いに乗っていた大阪鉄道は、久米寺駅から桜井を経て宇治山田に至る路線構想を有しており、伊勢への延伸計画は重複する大阪電気軌道(大軌)にとっては脅威かつ邪魔なものでしかなく、資本力に勝っていた大軌は大鉄を本気で潰しにかかることになる。この後、恐慌に苦境に陥った大鉄に対し大軌は株式を買い集め始め圧力をかけるが、大鉄に救済の手をさしのべる会社はなく、ついには大軌が大鉄の過半の株式を持つに至り、旧経営陣は追放され大鉄は大軌の系列下に組み込まれた。
大和延長線の延伸を実現させた大阪鉄道であったが、 完成した頃には昭和恐慌の遭遇に見舞われた。大和延長線も思ったほど収益性が上がらず、多額の負債を抱えて経営が悪化した。前述のとおり、大鉄を系列下に置いていた大阪電気軌道の支援も受けたが、大軌も経営不振に陥っていたため、抜本的な打開策を講じることができなかった。
経営改善策として、大阪阿部野橋駅の移設と拡張、大鉄百貨店の開店、大鉄映画劇場及び大鉄花月劇場の開場など、兼営事業の拡大や多角化を図るための投資を積極的に行い、経営多角化によって本業の経営不振をカバーしようとした。
大鉄と大阪電気軌道(大軌)との合併交渉は前々からあったが、大鉄が大軌の系列下になったことから、現実味を帯びてきた。同じく大軌の系列下だった参宮急行電鉄(参急)などと合併を計画し、当時関西私鉄の合併推進の流れから系列二社の合併が決定し、旧大阪電気軌道を中心とした「近畿日本鉄道」が発足することとなった。
「近畿日本鉄道」の名は、ゆくゆくは、民営の日本鉄道をつくることを目指し、そのために、小田急や静岡電鉄とを結び、この両線を延長して名古屋鉄道に連絡し、さらに、これと近畿日本鉄道を結ぶという、近畿地方の範囲を超えた日本の私鉄経営に関する雄大な構想を持っていたことから。
経営改善策として、大阪阿部野橋駅の移設と拡張、大鉄百貨店の開店、大鉄映画劇場及び大鉄花月劇場の開場など、兼営事業の拡大や多角化を図るための投資を積極的に行い、経営多角化によって本業の経営不振をカバーしようとした。
大鉄と大阪電気軌道(大軌)との合併交渉は前々からあったが、大鉄が大軌の系列下になったことから、現実味を帯びてきた。同じく大軌の系列下だった参宮急行電鉄(参急)などと合併を計画し、当時関西私鉄の合併推進の流れから系列二社の合併が決定し、旧大阪電気軌道を中心とした「近畿日本鉄道」が発足することとなった。
「近畿日本鉄道」の名は、ゆくゆくは、民営の日本鉄道をつくることを目指し、そのために、小田急や静岡電鉄とを結び、この両線を延長して名古屋鉄道に連絡し、さらに、これと近畿日本鉄道を結ぶという、近畿地方の範囲を超えた日本の私鉄経営に関する雄大な構想を持っていたことから。
大阪線の上本町駅 - 伊勢中川駅間と、名古屋線の伊勢中川駅 - 近畿名古屋駅間に、伊勢中川駅で乗換える形で名阪直通の特急を運転開始。また、特急料金を徴収して座席定員制を採用し、新聞広告に「すわれる特急」と大きく掲載して、当時としては珍しい「確実に座って行ける電車」であることをアピールし、名阪間の都市間輸送を担った。
また、橿原神宮方面に特急「かつらぎ」、吉野方面に特急「さくら」を運行し、特急網を拡大する。
しかし、やはり旧・伊勢電気鉄道の軌間が違うことで直通運転が出来ないことがネックとなった。旧・伊勢電気鉄道の路線により成立した名古屋線は軌間1,067mmの狭軌であり、近畿日本鉄道の主流となる旧・大阪電気軌道、旧・参宮急行電鉄によって建設された大阪線・山田線などといった路線群は軌間1,435mmの標準軌であって線路幅が異なっていたため、前述の通り、名阪間の直通客は途中の伊勢中川駅で乗り換えを強いられていた。この問題については、名古屋線の改軌が計画され、橋梁架け替えに伴う線路移設などと併せて改軌準備工事が進められていたが、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風による被災を機に、改軌工事が復旧工事と同時進行で当初の計画を前倒しして実施されることになり、被災からわずか2か月後に名古屋線の工事が完了し、さらに同年には新造の10100系電車(ビスタカー2世)による名阪間直通特急の運転が実現した。
それまで、日本国有鉄道(国鉄)が東海道本線にカルダン駆動方式を用いた新性能の特急形車両である20系電車を登場させて、さらに同機構を採用した91系電車が東海道本線の急行・準急に投入されたため、名阪輸送で競合する近鉄は危機感を強めていた。
近鉄の10100系電車(ビスタカー2世)の登場により、6両編成で運用され、上本町駅 - 近鉄名古屋駅間を下りが2時間20分、上りが2時間27分で走破。その後、2時間10分程度に更に短縮した。名阪間の市場占有率は1963年には近鉄が7割を占めるなど国鉄に対し、価格・速達性・快適性などの面で凌駕するようになった。
サ10200形1階のみシートピッチ1,040mm、大型テーブルつき固定式クロスシートで、それ以外の車両はシートピッチ920mmの2人掛け回転式クロスシートとし、シートラジオを装備したほか、車内には列車公衆電話・冷水機を設置した。
サ10200形2階席部分は快適性向上と収容力拡大を目的として、各部寸法を当時の車両限界の最大値ぎりぎりまで拡大することで、2階席を2列+2列構成としていた。
機器面では、両端車体を普通構造の電動車とし、中間車両を2階建てとする3車体連接車というかたちとなった。連接台車を含めた1編成4台車をすべて電動台車としたため、通常の電動車2両分に相当する走行性能を確保した。全電動車方式で起動加速度2.5km/h/s・減速度4.0km/h/s・均衡速度150km/h・最大速度170km/hで、33‰上り勾配(青山隧道)でも98km/hの走行性能を実現した。
しかし、東海道新幹線が開業し「ひかり」が名阪間1時間31分、さらに1時間8分に短縮し、運行するようになると勝負にならなくなり、名阪間における近鉄一強の時代は遂に終わる。
さらに、2階席での冷房の効きにくさ、連接構造であるため保守に時間がかかる、その他運行上の問題が露呈し、その後、12400系の登場により廃車が開始された。
10100系電車(ビスタカー2世)
また、橿原神宮方面に特急「かつらぎ」、吉野方面に特急「さくら」を運行し、特急網を拡大する。
しかし、やはり旧・伊勢電気鉄道の軌間が違うことで直通運転が出来ないことがネックとなった。旧・伊勢電気鉄道の路線により成立した名古屋線は軌間1,067mmの狭軌であり、近畿日本鉄道の主流となる旧・大阪電気軌道、旧・参宮急行電鉄によって建設された大阪線・山田線などといった路線群は軌間1,435mmの標準軌であって線路幅が異なっていたため、前述の通り、名阪間の直通客は途中の伊勢中川駅で乗り換えを強いられていた。この問題については、名古屋線の改軌が計画され、橋梁架け替えに伴う線路移設などと併せて改軌準備工事が進められていたが、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風による被災を機に、改軌工事が復旧工事と同時進行で当初の計画を前倒しして実施されることになり、被災からわずか2か月後に名古屋線の工事が完了し、さらに同年には新造の10100系電車(ビスタカー2世)による名阪間直通特急の運転が実現した。
それまで、日本国有鉄道(国鉄)が東海道本線にカルダン駆動方式を用いた新性能の特急形車両である20系電車を登場させて、さらに同機構を採用した91系電車が東海道本線の急行・準急に投入されたため、名阪輸送で競合する近鉄は危機感を強めていた。
近鉄の10100系電車(ビスタカー2世)の登場により、6両編成で運用され、上本町駅 - 近鉄名古屋駅間を下りが2時間20分、上りが2時間27分で走破。その後、2時間10分程度に更に短縮した。名阪間の市場占有率は1963年には近鉄が7割を占めるなど国鉄に対し、価格・速達性・快適性などの面で凌駕するようになった。
サ10200形1階のみシートピッチ1,040mm、大型テーブルつき固定式クロスシートで、それ以外の車両はシートピッチ920mmの2人掛け回転式クロスシートとし、シートラジオを装備したほか、車内には列車公衆電話・冷水機を設置した。
サ10200形2階席部分は快適性向上と収容力拡大を目的として、各部寸法を当時の車両限界の最大値ぎりぎりまで拡大することで、2階席を2列+2列構成としていた。
機器面では、両端車体を普通構造の電動車とし、中間車両を2階建てとする3車体連接車というかたちとなった。連接台車を含めた1編成4台車をすべて電動台車としたため、通常の電動車2両分に相当する走行性能を確保した。全電動車方式で起動加速度2.5km/h/s・減速度4.0km/h/s・均衡速度150km/h・最大速度170km/hで、33‰上り勾配(青山隧道)でも98km/hの走行性能を実現した。
しかし、東海道新幹線が開業し「ひかり」が名阪間1時間31分、さらに1時間8分に短縮し、運行するようになると勝負にならなくなり、名阪間における近鉄一強の時代は遂に終わる。
さらに、2階席での冷房の効きにくさ、連接構造であるため保守に時間がかかる、その他運行上の問題が露呈し、その後、12400系の登場により廃車が開始された。
10100系電車(ビスタカー2世)
近鉄は、幾度にも渡る統合により発展を遂げてきたため、軌間や電圧が路線によって異なっており、統一した鉄道網を構築することは長年の課題であり、輸送力増強のために不可欠であった。前述の改軌事業や近鉄特急の運行、また、主要な子会社の合併により達成した。奈良電気鉄道や信貴生駒電鉄、伊勢交通の合併により、さらに鉄道網は拡大していった。
東海道新幹線の開通により名阪間における近鉄のシェアは低下したものの、完全になくなったわけではなかった。当時新幹線は最新鋭であったことから価格面では新幹線に勝っており、一定数の需要があった。
しかし、しかし、それまで大阪線は、布引山地を超えるために青山トンネルを通っていたが、単線かつ33.3‰の急勾配で輸送力には限界があった。この単線区間が輸送力増強を行う上でいわゆるボトルネックになっていたこともあり、複線化の計画が立てられる。
輸送力増強と所要時間の短縮、そして抜本的な線路改良による運転保安度の改善を目的に、トンネルの前後区間を含む単線区間の複線化計画の工事を実施することとなった。伊賀上津駅から榊原温泉口駅までほぼ全区間複線の新線に切り替えられることになり、新青山トンネルをはじめとする新トンネルの完成により、近鉄大阪線は全線複線となり、踏切も無くなった。最急33.3‰の勾配が存在するが、新青山トンネル内は22.8‰で、曲線半径は1,000m以上となっている。トンネル内の架線にはコンパウンドカテナリー式剛体架線を採用しており、トロリ線の断線を防いでおり、通常の剛体架線と異なり、たわみに対応できるため高速走行も可能となっている。
新青山トンネルの開通により、安全かつ高速・大量かつ効率的な旅客輸送を可能とし、乗客の利便性向上や所要時間短縮が実現した。また、全長5,652mにおよび、日本の大手私鉄最長の山岳トンネルとなった。
また、奈良線では、旧来の生駒トンネルでは大型車が運行できないなどの輸送力増強の支障となっていたことから、昭和30年代後半から、新たな生駒トンネル建設を含む奈良線改良工事を施行した。
また、バス事業、不動産事業および百貨店事業などの既存事業に関しても積極的拡大を図った。バス事業では、路線を拡張していき、高速バス運営にも多数進出していき、鉄道の補完的役割を果たした。不動産事業では、学園前住宅地の開発に着手し、総合的な街づくりとして、大規模な住宅地開発を行った。そのほか、近鉄百貨店阿倍野店の新館を竣工させたりと、既存事業の拡大が行われた。
ホテル・観光などの新規事業の開拓も進め、ホテル事業では、都市型ホテル分野に進出し、以後、近鉄グループとしてホテルの全国展開を図っていく基盤を固めた。また、志摩地域を観光開発の最重点地域と位置づけ、1948年(昭和23年)に 「志摩観光ホテル」を開業し、志摩観光開発の戦略的拠点とした。旅行業では、従来の事業をさらに発展させるため、1950年(昭和25年)に「近畿日本ツーリスト株式会社」を発足させ、全国規模での事業展開を開始した。
東海道新幹線の開通により名阪間における近鉄のシェアは低下したものの、完全になくなったわけではなかった。当時新幹線は最新鋭であったことから価格面では新幹線に勝っており、一定数の需要があった。
しかし、しかし、それまで大阪線は、布引山地を超えるために青山トンネルを通っていたが、単線かつ33.3‰の急勾配で輸送力には限界があった。この単線区間が輸送力増強を行う上でいわゆるボトルネックになっていたこともあり、複線化の計画が立てられる。
輸送力増強と所要時間の短縮、そして抜本的な線路改良による運転保安度の改善を目的に、トンネルの前後区間を含む単線区間の複線化計画の工事を実施することとなった。伊賀上津駅から榊原温泉口駅までほぼ全区間複線の新線に切り替えられることになり、新青山トンネルをはじめとする新トンネルの完成により、近鉄大阪線は全線複線となり、踏切も無くなった。最急33.3‰の勾配が存在するが、新青山トンネル内は22.8‰で、曲線半径は1,000m以上となっている。トンネル内の架線にはコンパウンドカテナリー式剛体架線を採用しており、トロリ線の断線を防いでおり、通常の剛体架線と異なり、たわみに対応できるため高速走行も可能となっている。
新青山トンネルの開通により、安全かつ高速・大量かつ効率的な旅客輸送を可能とし、乗客の利便性向上や所要時間短縮が実現した。また、全長5,652mにおよび、日本の大手私鉄最長の山岳トンネルとなった。
また、奈良線では、旧来の生駒トンネルでは大型車が運行できないなどの輸送力増強の支障となっていたことから、昭和30年代後半から、新たな生駒トンネル建設を含む奈良線改良工事を施行した。
また、バス事業、不動産事業および百貨店事業などの既存事業に関しても積極的拡大を図った。バス事業では、路線を拡張していき、高速バス運営にも多数進出していき、鉄道の補完的役割を果たした。不動産事業では、学園前住宅地の開発に着手し、総合的な街づくりとして、大規模な住宅地開発を行った。そのほか、近鉄百貨店阿倍野店の新館を竣工させたりと、既存事業の拡大が行われた。
ホテル・観光などの新規事業の開拓も進め、ホテル事業では、都市型ホテル分野に進出し、以後、近鉄グループとしてホテルの全国展開を図っていく基盤を固めた。また、志摩地域を観光開発の最重点地域と位置づけ、1948年(昭和23年)に 「志摩観光ホテル」を開業し、志摩観光開発の戦略的拠点とした。旅行業では、従来の事業をさらに発展させるため、1950年(昭和25年)に「近畿日本ツーリスト株式会社」を発足させ、全国規模での事業展開を開始した。
1970年(昭和45年)に大阪の千里丘陵で日本万国博覧会(大阪万博)が開催されることになり、万博来場者を奈良や伊勢志摩など沿線観光地へ誘致する計画が立てられた。その中でも、「万博関連三大工事」と呼ばれたものが、難波線建設、近畿日本奈良駅および付近線路の地下移設、鳥羽線建設、志摩線改良の各工事であった。孤立路線だった志摩線の標準軌への改軌および鳥羽線建設による直通化に取り組み、万博が開かれる直前に完成させた。さらに、難波線も大型機械シールド工法を利用した難工事の末に完成し、悲願であった難波乗り入れを果たした。
近畿日本奈良駅および付近線路の地下移設は、併用軌道解消による渋滞解消、輸送力増強に大きく進んだ。
「万博関連三大工事」は、万博直前までに完工し、無事万博を迎えることができた。
万博では、レインボーロープウェイを運営し、西口駅から中央駅まで(870m)を7分30秒で結ぶ遊覧専用ロープウェイで、1日平均1万3000人の来場者を運んだ。
万博後のグループ事業では、沿線地域のみならず関東・北陸から九州に至るまで、交通関連事業の拡大および生活関連事業の積極的展開を推し進めた。
観光業にて、近鉄グループが総力を挙げて取り組んだのが、志摩地域に主眼を置いた伊勢志摩総合開発で、前述の通り、鳥羽線建設、志摩線の改軌により、この地域への特急によるアクセスを格段に向上させたほか、志摩観光ホテルの増築による宿泊施設の拡充、ゴルフ場や志摩マリンランドの新設、賢島別荘地の分譲、賢島大橋の建設など、整備内容は多岐にわたり、「伊勢志摩は近鉄王国」とも呼ばれるようになった。
近畿日本奈良駅および付近線路の地下移設は、併用軌道解消による渋滞解消、輸送力増強に大きく進んだ。
「万博関連三大工事」は、万博直前までに完工し、無事万博を迎えることができた。
万博では、レインボーロープウェイを運営し、西口駅から中央駅まで(870m)を7分30秒で結ぶ遊覧専用ロープウェイで、1日平均1万3000人の来場者を運んだ。
万博後のグループ事業では、沿線地域のみならず関東・北陸から九州に至るまで、交通関連事業の拡大および生活関連事業の積極的展開を推し進めた。
観光業にて、近鉄グループが総力を挙げて取り組んだのが、志摩地域に主眼を置いた伊勢志摩総合開発で、前述の通り、鳥羽線建設、志摩線の改軌により、この地域への特急によるアクセスを格段に向上させたほか、志摩観光ホテルの増築による宿泊施設の拡充、ゴルフ場や志摩マリンランドの新設、賢島別荘地の分譲、賢島大橋の建設など、整備内容は多岐にわたり、「伊勢志摩は近鉄王国」とも呼ばれるようになった。
- 阪神電気鉄道?:神戸高速線・本線・阪神なんば線が奈良線(難波線・大阪線・奈良線)と、新開地駅・神戸三宮駅・尼崎駅 - 大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間で相互直通運転。
- 大阪高速鉄道:中央線が京阪奈線と、コスモスクエア駅 - 長田駅 - 生駒駅・学研奈良登美ヶ丘駅間で相互直通運転。
- 京都市営地下鉄?(京都市交通局):烏丸線が近鉄京都線・奈良線と、国際会館駅 - 竹田駅 - 新田辺駅・近鉄奈良駅間で相互直通運転。
- 山陽電気鉄道?:阪神神戸高速線・山陽電気鉄道本線を介して山陽姫路駅へ乗り入れ、近鉄特急や修学旅行列車を中心に山陽姫路 - 近鉄奈良・伊勢志摩方面を結ぶ
- 名古屋市営地下鉄?(名古屋市交通局):名古屋市営地下鉄金山線と、近鉄名古屋線から、戸田駅付近において相互直通運転。
特急は近鉄の列車種別のうちで最上位の列車で、近鉄特急と呼称される。
多数の特急列車が大阪・名古屋・京都などの各都市や伊勢志摩、吉野などの観光地を結んでおり、その本数・運行頻度は日本私鉄で最大である。
特急は全車座席指定席であり、利用するには運賃とは別に特急料金が必要である。近鉄の特急料金には指定席の料金が含まれる。特急料金は特別急行券の購入によって支払う。
現在、近鉄特急の各列車には列車愛称が存在しないが、大阪・京都・名古屋を起点に、各地方都市・観光地を結ぶ系統が8つ存在し、例えば、この内の大阪 - 名古屋間系統の場合は「名阪」と称し、定義に沿って8つの系統名を言い表せば、名阪、阪伊、名伊、京伊、京橿、京奈、阪奈、吉野で、系統名の下に特急と付記して「名阪特急」と記述する。
また、便宜上、速達タイプの停車駅の少ない特急を甲特急、主要駅停車タイプの特急を乙特急と区別の上呼称し、速達タイプと主要駅停車タイプとに分けていないその他の列車では、単に特急と呼称する。
名阪特急
名阪特急は、大阪難波駅・大阪上本町駅・名張駅 - 近鉄名古屋駅間に運行される。
列車ダイヤは、大阪難波駅・近鉄名古屋駅とも甲特急は毎時00分発とし、乙特急は30分発となっている。
阪伊特急
阪伊特急は、大阪と伊勢志摩を結ぶ特急で、大阪難波駅・大阪上本町駅 - 名張駅・伊賀神戸駅・松阪駅・宇治山田駅・五十鈴川駅・鳥羽駅・賢島駅間に列車が設定されている。
伊勢志摩ライナー(23000系)
大阪難波駅 - 大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - 伊勢市駅 - 宇治山田駅 - 鳥羽駅 - (志摩磯部駅) - 鵜方駅 - 賢島駅
乙特急(汎用特急車両)
大阪難波駅 - 大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - (布施駅) - (大和高田駅) - 大和八木駅 - (榛原駅) - 名張駅 - (伊賀神戸駅) - 伊勢中川駅 - 松阪駅 - 伊勢市駅 - 宇治山田駅 - 五十鈴川駅 - 鳥羽駅 - 志摩磯部駅 - 鵜方駅 - 賢島駅
名伊特急
名伊特急は、名古屋と伊勢志摩方面を結ぶ系統で、近鉄名古屋駅 - 賢島駅間で運行されている。
日本旅客鉄道?(NR)では、近鉄に並行する路線に快速列車「神宮」号が設定されており、名伊特急と競合している。
京伊特急
京伊特急は、京都と伊勢志摩方面を結ぶ特急列車で、京都駅 - 賢島駅間で運行されている。
汎用特急列車が運用されるほか、23000系「伊勢志摩ライナー」、「ビスタEX」も運行されている。
京都駅 - 近鉄丹波橋駅 - (新祝園駅) - 大和西大寺駅 - 大和八木駅 - (榛原駅) - 名張駅 - 伊勢中川駅 - 松阪駅 - 宇治山田駅 - 五十鈴川駅 - 鳥羽駅 - (志摩磯部駅) - 鵜方駅 - 賢島駅
京橿特急
京橿特急は、京都と大和県中部の橿原市を結ぶ列車で、京都駅 - 橿原神宮前駅間で運転されている。
主に、奈良や橿原周辺の観光地へ移動する観光客輸送を目的とし、唐招提寺、薬師寺、垂仁天皇陵などがある西ノ京駅を日中時間帯に停車、橿原神宮前駅では吉野特急と接続し、近鉄線内の各都市から吉野、大峰山等への観光輸送を担っている。
京都駅 - 近鉄丹波橋駅 - 新祝園駅 - 大和西大寺駅 - (西ノ京駅) - 大和八木駅 - 橿原神宮前駅
京奈特急
京奈特急は、京都と奈良を結ぶ列車で、京都駅 - 近鉄奈良駅間で運転されている。京都駅 - 近鉄奈良駅間の39.0kmという短距離特急であるが、二つの古都を結ぶことから、観光客輸送が盛んに行われている。
京都駅 - 近鉄丹波橋駅 - (新祝園駅) - 大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅
阪奈特急
阪奈特急は、大阪と奈良を結ぶ特急列車で、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間で運転されている。その運行距離の短さから所要時間は30分程度で、同区間を走る快速急行や急行などの在来列車と比べても大差はなく、快速急行は10分間隔で運行されているため、快速急行の利用者の方が多い。しかし、通勤路線としての性格も大きく、着席ニーズに応える通勤特急としての役割を担っており、一定の利用者を確保している。
吉野特急
吉野特急は、大阪と大和県の吉野を結ぶ列車で、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で運転されている。河内線・吉野線は、大阪鉄道(大鉄)により建設されたため、軌間が狭軌であり、ほかの特急が走る路線の標準軌と軌間が異なっているため、運行系統上、独立している。大阪方面から吉野方面への観光客輸送と、京橿特急との連絡輸送を担っている。
多数の特急列車が大阪・名古屋・京都などの各都市や伊勢志摩、吉野などの観光地を結んでおり、その本数・運行頻度は日本私鉄で最大である。
特急は全車座席指定席であり、利用するには運賃とは別に特急料金が必要である。近鉄の特急料金には指定席の料金が含まれる。特急料金は特別急行券の購入によって支払う。
現在、近鉄特急の各列車には列車愛称が存在しないが、大阪・京都・名古屋を起点に、各地方都市・観光地を結ぶ系統が8つ存在し、例えば、この内の大阪 - 名古屋間系統の場合は「名阪」と称し、定義に沿って8つの系統名を言い表せば、名阪、阪伊、名伊、京伊、京橿、京奈、阪奈、吉野で、系統名の下に特急と付記して「名阪特急」と記述する。
また、便宜上、速達タイプの停車駅の少ない特急を甲特急、主要駅停車タイプの特急を乙特急と区別の上呼称し、速達タイプと主要駅停車タイプとに分けていないその他の列車では、単に特急と呼称する。
名阪特急
名阪特急は、大阪難波駅・大阪上本町駅・名張駅 - 近鉄名古屋駅間に運行される。
列車ダイヤは、大阪難波駅・近鉄名古屋駅とも甲特急は毎時00分発とし、乙特急は30分発となっている。
- 停車駅
- 特急「ひのとり」(80000系)
- 特急「アーバンライナー」(21020系、21000系)
阪伊特急
阪伊特急は、大阪と伊勢志摩を結ぶ特急で、大阪難波駅・大阪上本町駅 - 名張駅・伊賀神戸駅・松阪駅・宇治山田駅・五十鈴川駅・鳥羽駅・賢島駅間に列車が設定されている。
- 停車駅
伊勢志摩ライナー(23000系)
大阪難波駅 - 大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - 伊勢市駅 - 宇治山田駅 - 鳥羽駅 - (志摩磯部駅) - 鵜方駅 - 賢島駅
乙特急(汎用特急車両)
大阪難波駅 - 大阪上本町駅 - 鶴橋駅 - (布施駅) - (大和高田駅) - 大和八木駅 - (榛原駅) - 名張駅 - (伊賀神戸駅) - 伊勢中川駅 - 松阪駅 - 伊勢市駅 - 宇治山田駅 - 五十鈴川駅 - 鳥羽駅 - 志摩磯部駅 - 鵜方駅 - 賢島駅
名伊特急
名伊特急は、名古屋と伊勢志摩方面を結ぶ系統で、近鉄名古屋駅 - 賢島駅間で運行されている。
日本旅客鉄道?(NR)では、近鉄に並行する路線に快速列車「神宮」号が設定されており、名伊特急と競合している。
- 停車駅
- 甲特急
- 乙特急
京伊特急
京伊特急は、京都と伊勢志摩方面を結ぶ特急列車で、京都駅 - 賢島駅間で運行されている。
汎用特急列車が運用されるほか、23000系「伊勢志摩ライナー」、「ビスタEX」も運行されている。
- 停車駅
京都駅 - 近鉄丹波橋駅 - (新祝園駅) - 大和西大寺駅 - 大和八木駅 - (榛原駅) - 名張駅 - 伊勢中川駅 - 松阪駅 - 宇治山田駅 - 五十鈴川駅 - 鳥羽駅 - (志摩磯部駅) - 鵜方駅 - 賢島駅
京橿特急
京橿特急は、京都と大和県中部の橿原市を結ぶ列車で、京都駅 - 橿原神宮前駅間で運転されている。
主に、奈良や橿原周辺の観光地へ移動する観光客輸送を目的とし、唐招提寺、薬師寺、垂仁天皇陵などがある西ノ京駅を日中時間帯に停車、橿原神宮前駅では吉野特急と接続し、近鉄線内の各都市から吉野、大峰山等への観光輸送を担っている。
- 停車駅
京都駅 - 近鉄丹波橋駅 - 新祝園駅 - 大和西大寺駅 - (西ノ京駅) - 大和八木駅 - 橿原神宮前駅
京奈特急
京奈特急は、京都と奈良を結ぶ列車で、京都駅 - 近鉄奈良駅間で運転されている。京都駅 - 近鉄奈良駅間の39.0kmという短距離特急であるが、二つの古都を結ぶことから、観光客輸送が盛んに行われている。
- 停車駅
京都駅 - 近鉄丹波橋駅 - (新祝園駅) - 大和西大寺駅 - 近鉄奈良駅
阪奈特急
阪奈特急は、大阪と奈良を結ぶ特急列車で、大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間で運転されている。その運行距離の短さから所要時間は30分程度で、同区間を走る快速急行や急行などの在来列車と比べても大差はなく、快速急行は10分間隔で運行されているため、快速急行の利用者の方が多い。しかし、通勤路線としての性格も大きく、着席ニーズに応える通勤特急としての役割を担っており、一定の利用者を確保している。
- 停車駅
吉野特急
吉野特急は、大阪と大和県の吉野を結ぶ列車で、大阪阿部野橋駅 - 吉野駅間で運転されている。河内線・吉野線は、大阪鉄道(大鉄)により建設されたため、軌間が狭軌であり、ほかの特急が走る路線の標準軌と軌間が異なっているため、運行系統上、独立している。大阪方面から吉野方面への観光客輸送と、京橿特急との連絡輸送を担っている。
- 停車駅
特急以外の列車種別については、各路線によって扱いが異なるため、原則各路線ページに記述する。
- 快速急行(難波線、奈良線、大阪線、山田線、鳥羽線)
- 急行(難波線、奈良線、京都線、橿原線、天理線、大阪線、山田線、名古屋線、鈴鹿線、鳥羽線、南大阪線、吉野線、長野線)
- 準急(難波線、奈良線、京都線、大阪線、名古屋線、南大阪線、吉野線、長野線)
- 区間準急(難波線、奈良線、大阪線)
- 東花園検車区
- 東花園車庫(奈良線・大阪線)
- 東生駒車庫(京阪奈線)
- 登美ヶ丘車庫(京阪奈線)
- 上野市車庫(伊賀線)
- 富吉検車区
- 富吉車庫(名古屋線)
- 米野車庫(名古屋線)
- 北大社車庫(北勢線)
- 内部車庫(内部線)
- 大垣車庫(養老線)
近鉄では現在、すべての特急列車で乗車券のほかに特別急行券(特急券)を要する。特急券は原則乗車日の1か月前より販売される。
なお、閑散期や閑散時間帯には割引されるなど、一定の時価制となっている。(子どもは半額)
なお、閑散期や閑散時間帯には割引されるなど、一定の時価制となっている。(子どもは半額)
キロ程 | 特別急行料金(円) |
---|---|
1 - 40 | 550 |
41 - 80 | 950 |
81 - 140 | 1,350 |
141 - 180 | 1,650 |
181 - | 1,900 |
特急「ひのとり」や「伊勢志摩ライナー」など一部の特急列車を利用する際に要する。
「しまかぜ」の和風個室・洋風個室(定員4名)を利用の場合は人数分の特急料金・「しまかぜ」の特別車両料金に加えて個室料金(1室あたり1,000円)が必要となる。
「しまかぜ」の和風個室・洋風個室(定員4名)を利用の場合は人数分の特急料金・「しまかぜ」の特別車両料金に加えて個室料金(1室あたり1,000円)が必要となる。
近鉄には奈良や三重を中心にローカル駅や無人駅が多いという実情から、全線全駅での自動改札の導入は行われていないが、全駅でICカードが利用かのうとなっている。また、一部の大規模駅では、光学読み取り式自動改札システムの導入を進めている。
ホームに設置されている発車標は、1980年代までは行灯式や字幕式、それ以降2000年頃まで設置されたものは反転フラップ式が主流であったが、現在は主要駅では、発光ダイオード(LED)や液晶ディスプレイ(LCD)タイプのものに交換された。
バリアフリー対応のため、特急停車駅などの主要駅、都心部や近郊区間の駅ではエレベーターやエスカレータ、スロープ、障害者対応トイレなどの設置が逐次進められている。しかし、閑散駅では導入は進んでいない。
役職名 | 氏名 | よみがな |
---|---|---|
代表取締役会長 | 八雲 昌 | やくも まさ |
代表取締役社長 | 筒井 正豪 | つつい せいごう |
取締役専務執行役員 | 大谷 貴祥 | おおたに たかよし |
中村 諒子 | なかむら りょうこ | |
取締役常務執行役員 | 伊吹 音 | いぶき おと |
戸原 克史 | とばら かつし | |
中崎 登 | なかさき のぼる | |
平 宗正 | たいら むねまさ | |
取締役 | 白井 任 | しらい じん |
吉村 康生 | よしむら こうせい | |
原田 未知 | はらだ みち | |
坂村 顕 | さかむら たけし | |
細川 篤典 | ほそかわ あつのり | |
赤井 美代 | あかい みよ | |
六角 林之助 | ろっかく りんのすけ | |
朽木 蓮 | くちき れん | |
監査役 | 中島 かれん | なかしま かれん |
静岡 正司 | しずおか まさし |
近畿日本鉄道労働組合が組織されており、日本私鉄労働組合総連合会に加盟している。
大和県などでは特に、並行する他社路線が少ないなどの理由で、沿線住民から強い反発があり、原則列車運行のストライキを行わない方針を採っている。
大和県などでは特に、並行する他社路線が少ないなどの理由で、沿線住民から強い反発があり、原則列車運行のストライキを行わない方針を採っている。
かつては近鉄パールスという野球球団を持っていた。
1949年、近畿日本鉄道をスポンサーとする近鉄パールスを結成した。「パール(真珠)」は近鉄沿線の伊勢志摩地方で真珠養殖が盛んなことから。
近鉄パールスは結成後、太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)に加盟した。
1949年、近畿日本鉄道をスポンサーとする近鉄パールスを結成した。「パール(真珠)」は近鉄沿線の伊勢志摩地方で真珠養殖が盛んなことから。
近鉄パールスは結成後、太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)に加盟した。
1929年(昭和4年)に設立された大軌ラグビー部を源流とする社会人ラグビーチーム「近鉄ライナーズ」は、日本選手権で3度の優勝経験がある古豪として知られる。ラグビーの聖地とも称される近鉄花園ラグビー場を所有している。
近鉄グループ(きんてつグループ)は、純粋持株会社である近鉄グループホールディングス(近鉄HD)と近畿日本鉄道(近鉄)を中核とした企業グループで、それぞれの業界において大手といえる企業も多く、日本有数の規模の企業グループとなっている。
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