せっつけん 摂津県 | |
国 | 大日本帝国 |
地方 | 近畿地方 |
面積 | ㎢ |
総人口 | 3,300,000人 |
隣接都府県 | 大阪府 播磨県 丹波県 |
摂津県庁 | |
---|---|
知事 | 井戸 利三 |
県庁所在地 | 神戸市 |
摂津県領域 | |
海と山の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深のある扇状の入り江部に発展した理想的な港湾・神戸港を擁し、横浜港を有する横浜市とともに日本を代表する港湾都市である。神戸市役所や摂津県庁が位置するほか、神戸市を代表する繁華街である三宮や南京町で有名な元町が所在する。
関西でも随一の高級住宅地として名高く、特に六麓荘町は豪邸が立ち並び、住民間の建築協定を景観条例に押し上げ、高級住宅街としての環境を保全している。固有の文化に育まれた文化に育まれた瀟洒な街並を擁する。
阪神間の中間に位置する都市。プロ野球球団の阪神タイガースの本拠地であり、高校野球全国大会が開催される阪神甲子園球場や、十日戎で「福男選び」の神事を行うことでも知られる西宮神社、日本三大厄神の一つである門戸厄神東光寺が所在している。
源満仲(木曽義仲)が多田神社のある地域に源氏武士団を形成し、後に鎌倉幕府を開く源頼朝などの清和源氏の本拠地となっており、武門源氏発祥の地である。また、宝塚市に取り囲れた満願寺町は川西市の飛び地である。
小林一三が手がけた宝塚歌劇団の本拠地である宝塚大劇場があり、『歌劇の街』として全国的に有名である。阪神阪急東宝の娯楽施設も多く立地している。また、仁川、逆瀬川、雲雀丘などの閑静な高級住宅街も有する。
六甲山地の北側に位置し、かつては田園風景の広がる農村の様相を呈していたが、大規模住宅団地の開発と、福知山線の複線電化により利便性が向上し、大阪・神戸の衛星都市として急激な発展を遂げた。
源氏同士の抗争の間に勢力を立て直した平氏は、大輪田泊に上陸して、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。平氏は京奪回の軍を起こす予定をしていた。
後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。
1184年(寿永3年)、源範頼が大手軍5万6千余騎を、源義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平氏は福原に陣営を置いて、生田口、一ノ谷口、夢野口に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。
搦手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の平資盛、平有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(三草山の戦い)。前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃した。
迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越で軍を二分して、安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて通盛・教経の1万騎が守る夢野口へ向かわせる。義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。難路をようやく越えて義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。
その後、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000騎が駆けつけて激戦となった。
知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねたが、そこへ梶原景時・景季父子がふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。
義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口を攻撃し、生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は容易には突破できなかった。
精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入し、予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。
混乱が波及し、平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。
生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている夢野口の救援に向かったが、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じた。知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、遂に敗走を始めた。
この敗走で平氏一門の多くが討たれ、安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の平宗盛をはじめ、平氏一門は屋島へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。
後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。
1184年(寿永3年)、源範頼が大手軍5万6千余騎を、源義経が搦手軍1万騎を率いて京を出発して摂津へ下った。平氏は福原に陣営を置いて、生田口、一ノ谷口、夢野口に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。
搦手を率い丹波路を進む義経軍は播磨国・三草山の平資盛、平有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(三草山の戦い)。前哨戦に勝利した義経は敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃した。
迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越で軍を二分して、安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて通盛・教経の1万騎が守る夢野口へ向かわせる。義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。難路をようやく越えて義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。
その後、先駆けせんと欲して義経の部隊から抜け出した熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が忠度の守る塩屋口の西城戸に現れて名乗りを上げて合戦は始まった。平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000騎が駆けつけて激戦となった。
知盛、重衡ら平氏軍主力の守る東側の生田口の陣の前には範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の大手軍5万騎が布陣。範頼軍は激しく矢を射かけるが、平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねたが、そこへ梶原景時・景季父子がふりそそぐ矢の中を突進して「梶原の二度懸け」と呼ばれる奮戦を見せた。
義経と分かれた安田義定、多田行綱らも夢野口を攻撃し、生田口、塩屋口、夢野口で激戦が繰り広げられるが、平氏は激しく抵抗して、源氏軍は容易には突破できなかった。
精兵70騎を率いて、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て坂を駆け下る決断をする。崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入し、予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣営は大混乱となり、義経はそれに乗じて方々に火をかけた。平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。
混乱が波及し、平忠度の守る塩屋口の西城戸も突破される。逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。
生田口の東城戸では副将の重衡が8000騎を率いて安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている夢野口の救援に向かったが、一ノ谷から煙が上がるのを見た範頼は大手軍に総攻撃を命じた。知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、遂に敗走を始めた。
この敗走で平氏一門の多くが討たれ、安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた総大将の平宗盛をはじめ、平氏一門は屋島へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。
元弘の乱では、播磨国の赤松円心が鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題と攻防を繰り広げた。
後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した元弘の乱において、後醍醐天皇の皇子である護良親王の挙兵に呼応した楠木正成の軍が芥川付近まで進出した際、六波羅探題は宇都宮公綱と円心の軍を派遣して忍頂寺付近にまで退けた。
しかし、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵した。初め一族の高田氏が幕府方に内通しようとしたため、兵を動かし西条山城にて交戦。続いて六波羅探題の命を受けた備前国守護加持氏が兵を出してきたが、先発隊である伊東氏と備前三石城で戦い、盟主である伊東惟群を服従させ、これを西国からの幕府軍の備えとして三石城に残して東上を開始した。
この後、室山に陣を築き反幕府方の諸豪族の参集をし、白川・小部・石南花山を経て、布引谷沿いに南に向かい、あらかじめ範資に築かせておいた摂津摩耶山城へ入った。赤松軍を討つため六波羅は佐々木時信などの軍を派遣し、早くも六波羅軍2万が攻め寄せてくるが、赤松軍が得意とした野伏り戦を展開し撃退した。
後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した元弘の乱において、後醍醐天皇の皇子である護良親王の挙兵に呼応した楠木正成の軍が芥川付近まで進出した際、六波羅探題は宇都宮公綱と円心の軍を派遣して忍頂寺付近にまで退けた。
しかし、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇の皇子・護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵した。初め一族の高田氏が幕府方に内通しようとしたため、兵を動かし西条山城にて交戦。続いて六波羅探題の命を受けた備前国守護加持氏が兵を出してきたが、先発隊である伊東氏と備前三石城で戦い、盟主である伊東惟群を服従させ、これを西国からの幕府軍の備えとして三石城に残して東上を開始した。
この後、室山に陣を築き反幕府方の諸豪族の参集をし、白川・小部・石南花山を経て、布引谷沿いに南に向かい、あらかじめ範資に築かせておいた摂津摩耶山城へ入った。赤松軍を討つため六波羅は佐々木時信などの軍を派遣し、早くも六波羅軍2万が攻め寄せてくるが、赤松軍が得意とした野伏り戦を展開し撃退した。
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